『
ロイター 2015年11月25日
http://jp.reuters.com/article/2015/11/25/insight-molenbeek-youth-is-idJPKBN0TE0CY20151125
焦点:多くのベルギーの若者が「戦闘員」になる理由
「イスラム国」への参加は人口比で欧州最多
[ブリュッセル 23日 ロイター] -
ハリド・ベン・ラービは他の欧州の若者と似たような享楽的なライフスタイルを送り、モレンベークのモスクに行くこともめったになかった。
モレンベークは、ベルギー首都ブリュッセルのなかでもモロッコ系ムスリムを中心とした移民が多く暮らす地域で、ベン・ラービの他、パリ同時攻撃の実行犯3人が育った場所である。
■イスラム地区の幻滅感
行儀の悪い若者にすぎなかったベン・ラービが冒険と栄光に魅せられて過激派組織「イスラム国」の戦闘員へと転じたのは、過激なイスラム教指導者の説教のせいではない。
他の若者がドラッグや犯罪に惹きつけられるのと同様に、スラム地区にありがちな幻滅感のせいだと、近所の人々や地元のソーシャルワーカー、イスラム教指導者らは指摘する。
モレンベークやその他の地域に住む家族は、自分たちの子どもが、シリアでの武勇伝を流布する怪しげな説教師やソーシャルメディア、そして地元の聖戦ネットワークによる影響を受けてイスラム国に勧誘されたことに気づき、ショックを受けることが多い。
べン・ラービは、生活には困らない、映画好きの「普通の若者」だった。
だが昨年のある日、彼はシリアでの戦闘に参加するために姿を消し、1月にベルギーに帰国した。
23歳だった彼はカラシニコフ銃を手に警察署襲撃に参加して射殺された。
「母親はひどくショックを受けていた。数カ月経った今でも外出しようとしない」
と、彼の家族を知る地元女性はロイターに語った。
ちょうど警察が13日に発生したパリ同時攻撃の重要な容疑者であるサラ・アブデスラムを追ってブリュッセルの捜索を進めていた。
「彼は友人に会いに行くと言っていた。次に家族が気づいた時には、シリアから電話をかけていた」
と彼女は語る。
彼の家族はロイターの取材に応じなかった。
■モレンベーク出身者が次々にシリアへ
ベン・ラービとともにシリアに向かったのが、やはりモレンベーク出身で、パリ同時攻撃の首謀者の容疑を受け、先週フランス警察に殺されたアブデルハミド・アバウド容疑者である。
彼らはインターネットに複数の動画を投稿していた。
血なまぐさいものもあれば、滑稽なものもある。
ベルギーのメディアによるインタビューによれば、アバウド容疑者の家族も彼がシリアに向かったことでショックを受けていた。
28歳の同容疑者は「観光テロリスト」と自称していたという。
当局は、彼が他のモレンベーク出身者を暴力行為に誘ったと考えている。
「シリア問題が私たちを打ち砕いてしまった。
家族は打ちひしがれて私たちのもとを訪れている」
とモレンベークに22カ所あるモスクの協議会を率いるJamal Habbachich氏は語る。
若者の過激化対策として今年モレンベーク区に新たに設立された機関で働くオリビエ・ファンデルハーゲン氏によれば、家族たちはこれまでムスリムの慣習にほとんど関心を持ってこなかった。
彼らの息子たちが親族に対して信仰の浅さを非難するようになって初めてその変化に気づく例が多いという。
「そこまで来ると、もう過激化の最終段階に入っている。
そのときになってようやく家族が問題に気づくというのがよくあるパターンだ。
たいていの場合、ほぼ手遅れだが」
と同氏は言う。
サラ・アブデスラム容疑者、あるいはそれ以外の者がパリと同じような攻撃を新たに仕掛けるのではないかという恐れからブリュッセルが3日にわたり厳戒下に置かれるなかで、こうしたエピソードを通じてモレンベークに注目が集まっている。
ブリュッセル市内において、運河を挟んで貧しい地区に当たるモレンベーク区は、過密と若年層の高失業率に悩まされている。
他の都市スラム地域においても、これと同じ問題が治安悪化とゲットー化の原因として指摘されている。
こうした要因に、モロッコ系移民の一部に見られる
「自分たちはモロッコにもベルギーにも帰属していない」
という意識が重なる。
「ここで見られる過激化は、本質的にはアイデンティティの危機なのだ」
と、前出のファンデルハーゲン氏は指摘する。
■もともと信仰心はなかった
26歳のサラ・アブデスラム容疑者は、麻薬取引疑惑で閉店したバーを地元で経営していたが、治安当局者によれば、獄中でアバウド容疑者と知り合ったという。
両人とも4─5年前に軽窃盗罪で服役している。
誰も彼に信仰心があるなどとは思っていなかった。
だが、サラの兄モハメド氏が22日にベルギーのテレビで語ったところによれば、今年初めにサラともう1人の弟ブラヒムが礼拝を始め、パーティなどでもアルコールを口にしなくなったことに気づいたという。
サラが経営していたバーのオーナーだったブラヒムは、パリのカフェ「コントワール・ヴォルテール」外部で自爆した。
アブデスラム兄弟は、大半の隣人たちと同様、1960年代に労働力不足を補うためにベルギーが大量に呼び寄せたモロッコ系移民の子孫である。
Habbachich氏によれば、サラは子どもの頃モレンベークにあるモスクに通っていたが、その後、行かなくなってしまったという。
一部のイスラム教指導者はあまりにも伝統志向であり、若者が日々直面する困難に向き合えないと同氏は語る。
モレンベーク区内の指導者のうち、フランス語を話せるのも2人に1人の割合でしかない。
「だから、若者は他に救いを求める」とファンデルハーゲン氏は言う。
「街の言葉」を話せるイスラム国の徴募員に魅了されてしまうのだ。
たとえば、ソーシャルメディアを駆使する「シャリア・フォー・ベルギー」である。
今年初め、この組織のリーダーを初めとする数十名のメンバーが、シリアに多くの戦闘員を送り込んだとしてフランドル地方の都市アントワープで有罪判決を受けている。
モレンベークの女性区長は、モレンベークについて「過激な暴力の温床」であると表現し、当局が問題を掌握するに至っていないことを認めている。
たとえば、2014年以来、22万人の住民を抱えるモレンベーク警察管轄区域では、4名の警察官が過激主義に目を光らせている。「それでは不十分だ」と区長は言う。
■ベルギーからの戦闘員は人口比で欧州最多
人口比では欧州最多となる、少なくとも350人が戦闘員としてベルギーからシリアに向かい、他の者から英雄視されている以上、もっと対策が必要だと考える人は多い。
新たにシリアに向かう人数は、2012─13年の月間10─12人から今年夏には月間約5人と半減したものの、テロ対策専門家のリック・コールサート氏によれば、今日見られる新世代のIS戦闘員予備軍は、さほど理想主義的ではなく、「サディスティックで冒険・スリルを求める」より「ハードコア」なグループであると言う。
「この未来がない雰囲気のなかで、社会から逸脱する行動に対する新たな受け皿となっている。
彼らに何らかの帰属意識を持たせている」
と同氏は言う。
ブリュッセルの未成年者矯正施設でムスリムのカウンセラーとして働くMohamed Azaitraoui氏によれば、彼が担当する入所者80人のうち4人が、ISとの関連を疑われて治安機関に連行された。
最近同氏は、17歳の入所者に対して数カ月にわたるカウンセリングを行ったが、その入所者はシリア人の徴募担当者とネットで直接連絡を取っていたと思われるという。
職業上の経験から、Azaitraoui氏はティーンエイジャーである自分の子どもについても特に注意をしているという。
「あの世代は、自分を(映画の主人公)ランボーのように無敵であると考える。
シリアで救済が待っていると言われれば、ありがたい神話のように受けとめてしまう」
と指摘する。
(Alissa de Carbonnel記者)
(翻訳:エァクレーレン)
』
『
現代ビジネス 2015年11月27日(金) 川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46577
イスラム過激派が500人!
テロ厳戒下のベルギーはいま、無法地帯になっている
「黒いハンドバッグ」に脅える市民たち
■政治的混乱が常態の「EUの首都」
ベルギーの首都ブリュッセルで、テロ警戒レベルが最高に引き上げられ、厳戒態勢に入ったのは21日だが、まだ解除されない。
少なくとも30日まで続くそうだ。
ベルギーというのは昔からへんてこな国だった。
首都のブリュッセルは、紛れもなく美しく豊かな街で、美味しいビールと極上のチョコレートでも有名だ。
もちろん、2万5000人の職員を擁する欧州委員会の総局があるので、「EUの首都」ともいえる。
しかし一方で、ブリュッセル市の人口が100万人強なのに19もの自治体に分かれていて、19人の長がいて、6つの警察本部がある。
公用語はフラマン語、フランス語、そしてドイツ語。
政治は混乱しており、すでにそれが常態のようだ。
大昔、落合信彦氏がベルギーのことを「白いインド」と呼んだが、言い得て妙だった。
2010年の総選挙の後はなかなか組閣ができず、ようやく新内閣が成立した時には、選挙から535日が経っていた。
つまり、1年半のあいだ正式な政府がなかったのだが、とくに支障もなかった。
とはいえ、535日の空白というのは、おそらく世界新記録だろう。
現在の内閣は4党連立で、14年6月の選挙後、わずか(!)4ヵ月で誕生した。
ベルギーにはイスラム系の移民が多い。
ブリュッセルでは、その数は、すでに住人の半数を超えており、近年では、新生児の名前で一番多いのがムハンマド君だという。
アラブ系だけでなく、アフリカ系の移民も多い。
コンゴ、ルワンダ、ブルンジなど、ベルギーがかつてアフリカに植民地を持っていたためだ。
ベルギーの植民地政策は、多くの国がまだ植民地を持っていた20世紀の初頭でさえ、あまりに残忍であるとして国際的な非難を呼んだという。
コンゴでは、過酷な搾取によって人口が5分の3に減ってしまったそうだ。
ベルギーの植民地であった国は、独立した後もそろって貧困から立ち直れず、そればかりか、内戦や虐殺など悲惨な状況が続いた。
それは、独立に際しての宗主国の無責任な対応の結果によるところが多いと言われている。
■いつのまにか「イスラム過激派の首都」に
現在、ベルギーが抱える一番の問題は、首都ブリュッセルの一部が無法地帯と化してしまっていることだろう。
住民のほとんどが移民で、一番多いのはモロッコ系。
失業率は30%と、かなり絶望的な場所だ。
この中に、イスラムの過激派が紛れ込んだ。
あるいは、ここで生まれ育った。社会から締め出されてしまったような疎外感と失望が、ここの若者を過激な思想に走らせたのかもしれない。
そのうえ、この地区のモスクでは、すでに30年も前からキリスト教徒に対する憎悪を植え付ける教えが熱心に広められていたという。
資金はサウジアラビアの過激イスラム宗派ワッハーブから出ていた。
しかし、19人の自治体の長は、誰もここが自分の管轄だとは思っていなかった。
警察もあまり近寄らないというから、テロリストにとってはまさに天国だ。
当然、過激派はどんどん増えた。
武器や弾丸も運び込まれた。
ロシアからチェチェンのイスラム過激派もやってきた。
ブリュッセルがいつしかヨーロッパにおける「イスラム過激派の首都」のようになってしまったのは、決して偶然ではなかった。
今、ベルギーには、シリアで戦闘に加わった経験のあるイスラム過激派が500人もいるという。
彼らはベルギー国籍を持っているので、戦死しなければ皆、戻ってくる。
1月にパリで起こったシャルリ・エブドのテロのときも、準備がここでなされていたことは、その後の調べでわかっていた。
今回のテロでも、犯人はベルギーで堂々とレンタカーを借りて、パリに出陣している。
だから、今、なぜそのような状態が放置されていたのかということが、厳しく問われているのだ。
ベルギーの秘密警察は、アラビア語の通訳さえ十分に雇っていなかったといわれるから、それほど効果的なテロ対策は取られていなかったと思われる。
此の期に及んでまた新たなテロが起きれば、国際的な非難はさらに強くなる。
ベルギー政府が戒厳令を解除できないのは、おそらくそのためだ。
現在、ブリュッセル市内は物々しい警戒態勢だが、当局が事態を把握できているかどうかは疑問だ。
パリのテロにおけるベルギーの罪は、やはりかなり大きいように思える。
■ドイツ全土に広がる警戒態勢
月曜日の夕方、シュトゥットガルトの繁華街を歩いていたら、歩行者天国なのに大きな消防車が入ってきた。
何かと思って見ていると、屈強な消防士がドタドタと5人も降りてくる。
ただ、皆、ニコニコしていて、あまり緊張感はない。
一人が上を指差すので、見上げると、道の真ん中の街路樹の枝に、黒いハンドバッグが引っかかっていた。
「ああ」と気がついた。
今、持ち主のわからない荷物は、すべて警戒の対象になっているのだ。
しかし、このハンドバッグに爆弾が入っているとは思えない。
それにしても、誰がこんなところに?
しばらく立ち止まって見ていると、消防士の一人が、先にグリップのついた長い棒を持って、そばのベンチに上がった。
他の消防士はお腹を抱えてゲラゲラ笑っている。
棒はギリギリで届き、エイっとばかりにバッグを跳ね上げると、真っ逆さまに落っこちてきた。爆弾が入っていたら、私も死亡していたところだった。
先週の金曜日には、ハノーヴァーの近くで、急行列車の中で不審な荷物が発見され、乗客は避難、駅は閉鎖され、何時間ものあいだ大騒動となった。
ちょうどハノーヴァー市でオランダとドイツのサッカー国際親善試合が、ドタキャンされた日だったので、緊張感が充満した。
最初のニュースでは、精巧な爆弾の模型が発見されたという話だった。
ところが、本当はただの機械の部品で、誰かが慌てて乗り換えた際に、置き忘れただけだったという。
忘れた本人は、ニュースを見ても、自分が騒動の犯人であるとは思いもせず、2日後に忘れ物を探しに来て、ようやく事件は解明された。
もちろんただの忘れ物なので罪には問われなかったが、掛かった費用は莫大である。
おそらく、ドイツでは現在、このようなことが全土で無数に起きていると思われる。
わざと要らないリュックサックなどを置いていく愉快犯も出ているのではないか。
■なんとなく不安なクリスマス
そうはいっても、なんとなく気味は悪い。
我が家は、ふだんは一家離散状態になっているため、クリスマスだけはどこかで集合することにしているのだが、次女がロンドンで働いているため、今年はそこで落ち合うことになっている。
クリスマスのロンドン、一番狙われそうな場所の一つだ。
だんだん怖くなってきた。
ロンドンは2005年の同時テロの後、テロ対策に精を出し、2011年の時点で185万台の監視カメラが設置されている。
今ではもっと多いだろう。
しかし、イスラム過激派は自爆を厭わないので、監視カメラはあまり役に立たないような気がする。
長女はロンドンのあと、ボーイフレンドと一緒にニューヨークへ行って大晦日を過ごすというので、もっと怖い。
やめればいいのに・・・。
それにしても、本当に嫌な世の中になったものだ。
』
_