『
JB Press 2015.11.2(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45127
中国・韓国が日本に絶対に追いつけない歴史的背景
中韓にノーベル賞が取れない理由~陽明学と朱子学
科学や技術の観点から21世紀の国際社会を見渡してみると、世界の先進圏は圧倒的に欧米と白人社会に限定され、アジアやアフリカで明確に先進国と言える地域は極めて限られることが分かると思います。
もっとはっきり言えば、日本は異常な突出の仕方で優秀です。
日本の優秀さを考えるうえで、「中国や韓国を引き合いに出さなくてもいいだろう」というご意見をいただくことが少なくありません。
私自身、一芸術家として文化外交にも関わりますし、中国や韓国の伝統に敬意や共感こそ感じても、嫌韓、嫌中といったことは全くありません。
そのうえで、でも、日本は圧倒的に中国や韓国より勝っています。
もっと言うなら、ひらがなやカタカナの起源を考えれば明らかなように、中華帝国を中心とする東アジア文化圏のファミリーの一員でありながら、日本だげがなぜか本当に突出している。
その理由を冷静に分析してみること・・・ルーツが中国にありながら、中国本体はもとより韓国、朝鮮も西欧文明の正統な後継者とはいまだなり得ておらず、日本だけが先導的なリーダーとして国際社会を牽引している。
この事実とその背景は、中国や韓国を貶めるということではなく、冷静に考えてみる価値があると思うのです。
■学問に対する取り組み方400年の違い
日本と中韓と、何が違うのか?
学問が、違うのです。
で、その違いは50年とか100年ではすまない。
実はここ400年近くにわたって「学問」として認められてきたものの本質が、実は日本と中国・韓国とでは全く異なっている。
この400年来、東アジアで「学問」と言えば、儒学に決まっているでしょう。
同じ儒学を学んでいるはずなのに、なぜ中韓と日本と「全く異なっている」のか?
キーワードがあります。
「知行合一」
です。
この言葉を遺したのは中国明代の儒学者、王陽明(1472-1529)、つまり「陽明学」と今日呼ばれる儒学を発展させたことが、日本の近代化を支えた根底にあるのです。
逆に言えば、21世紀の今日も中国、台湾、北朝鮮、韓国など東アジア文化圏の他のメンバーは儒学的な発想を強く保持していますが、そこには「陽明学」の要素がない、あるいは非常に少ない。
そこで強調されるのは封建学術の王道、明代の国家教学となった「朱子学」です。
南宋の儒学者 朱熹(1130-1200)が整理した「文献学」(「訓詁学」)は早くに朝鮮半島に伝わりました。
また中国本土でも明代に「国家の学」と定められ、中華大帝国は「科挙」というペーパーテストの一大システムを、この「朱子学」を柱に築き上げることに成功した。
1300年代という早い時期にです。そして21世紀になっても、
朱子学的な限界、
つまり文書主義にとらわれて、目の前で起きるファクトをきちんと評価することができない場合が少なくない。
つまりこの
「朱子学/陽明学」の転倒こそが、日本の科学興隆の基礎を作り上げ
ている可能性が高い。
こうした根は100年、200年では到底改まるものではありません。
中国や韓国は本当に解明化するのには数百年かかるのではないか、
と正味で思うことが少なくないのは、こうした「学問の根っこ」を考えるからなのです。
■実験科学受け入れの土壌となった「陽明学」
「陽明学」という言葉は、実は明治時代になってから日本で作られたものなのだそうです。
それ以前、幕藩体制の江戸時代には「王学」という呼ばれ方をしていたらしい。
まあ 王陽明が始めた学問ですから、王学でも陽明学でもどっちでもよさそうなものですが、日本で明治以降「陽明学者」あるいは「陽明学に深く影響を受けた」とされた人を、ちょっと並べて見ましょう。
佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛・・・。
なんだ、明治維新の立て役者の大半は、実は陽明学ということになるではないですか。
まだまだ続きます。
河合継ノ助、山田方谷、佐藤一斎、大塩平八郎・・・。
山田方谷は佐久間象山と並んで吉田松陰を教えた陽明学者として知られ、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らと並んで佐藤一斎に学びました。
この佐藤一斎と並ぶ学者として知る人が知る存在だったのが大塩中斎、平八郎にほかなりません。
大塩平八郎と言えば大阪で奉行所の与力でありながら、飢饉に苦しむ民衆の側に立って革命反乱を起こした人物として有名です・・・そう、
陽明学は「革命」をサポートする学問
だったわけです。
こう考えるとよく分かるでしょう。
明治維新も明らかに「革命」しかも下級武士、草莽の志士たちが現実を変えようと奔走し、幕府側も倒幕側も力を尽くし、新たな西洋からの武器などもふんだんに取り入れて鳥羽伏見の戦いなど、いずれも全力を出し切って四つに組み合って・・・。
そうそう、そうなのです。
西欧風に火器なども積極的に導入して、ファクトに基づいて現実を変えていこう、革命を起こして天の正道を実現しよう、という思想が陽明学です。
この土壌に「蘭学」「英学」などを移植して、医学や兵学を「学問」として受け入れ、また「事実」が正しければ古くからの書物の記載を改めることにも全く躊躇しない。
そういう陽明学の革命体質が「科学革命」をも受け入れ、さらには明治の若者たちを世界最先端の「科学革命」のリーダーにも押し上げていった。
そういう背景を与えているのです。
■「ファクトを見よ!」
あるとき、山田方谷を松陰・吉田寅次郎(1830-59)が訪ねたそうです。
明治以降「松蔭神社」などもでき、神様のように祭り上げられがちな松蔭ですが、実は満29歳で亡くなっている。
松蔭という人は生涯20代の若者だったんですね。
当時「攘夷」に燃える青年だった松蔭が「黒船来航」について夢中になって喋っていると方谷は
「・・・で、その船の底の深さはどれくらいか知っているのか?」
と尋ねたそうです。
さらに
「日本国内のどこの港が、その深さの船を停泊させることができると思うか?」
と尋ね、浮ついたイデオロギーで叫びまくる松蔭に「ファクトを見よ!」と教えたと言います。
実際、黒船は浦賀沖に碇を下ろして停泊、小さなボートで接岸するしか、黒船からの来航者は日本に上陸することはできなかった。
そういう現実を見よ、と陽明学の観点から方谷は松蔭に冷や水を浴びせかけた。
西洋人嫌いだった松蔭・吉田寅次郎でしたが、佐久間象山に学んで西欧の進んだ文明、また特に進んだ武器を目にしてからは、何とかして海外に密航しようと企て、江戸で捕らえられて地元の長州に送り返されてしまいます。
そこで始めたのが「松下村塾」の指導です。
松蔭は1857年から松下村塾での指導を始めますが、先生の松蔭がそもそも27歳、集まった高杉、山県有朋、伊藤博文といったのちの明治の元勲たちはハイティーンのツッパリ集団でしかありませんでした。
こういう連中に
「西洋の進んだ科学的兵器も積極的に導入しつつ、
天命を実現する」
という、極めて特殊な形での古代と近代のアマルガムを提供したのが、陽明学だったわけです。
この「天命」つまり「革命」の部分が、実は非常に大きかったのではないかと私は思うのです。
と言うのは、ここが本家本元の中国や韓国では、かなりごっそりと欠落しているからにほかなりません。
■天は自ら助くる者を助く
陽明学は「心即理」という考え方を大切にします。
学問的にデリケートなことはすっ飛ばして、ここではこれを「過去の文献や権威に何が書いてあろうとも、私の心が観測したファクトであれば、それこそが天の理法である」という、近代実験科学を受け入れる「大和魂」のようなものを作る働きを担うことになっている、と考えることにしましょう。
明治以降、日本は積極的に西欧科学を導入していきます。
数理、物理、心理、生理、倫理・・・学問の大半に「理」という言葉が使われていますが、
この「理」は陽明学の言う「心即理」と深く関係づけられて命名、
というより訳語が作られた経緯があるようです。
日本語で近代科学を書き直す仕事で大きな役割を果たしたグループに「明六社」があります。
森有礼、福澤諭吉、西周、加藤弘之、西村茂樹、津田真道、中村正直といったメンバーはその後の日本の近代学術を支える礎石を作ります。
例えば幕臣だった加藤は東京大学総理、大分中津藩出身の福澤は慶応義塾を作りますが、中津の領主奥平氏は三河以来の徳川の家臣で、いずれも新政府官界で出世しそうにない、旧幕府時代からの堂々たる有識層だったわけです。
中村正直もまた幕臣の子でしたが、蘭学・英学と平行して佐藤一斎に陽明学を学び、明治維新前に英国留学、功利主義思想を輸入し、幕府の学問所教官時代から東京帝国大学教授としての後半生まで。
一貫した学問思想を展開しています。
中村が訳した「天は自ら助くるものを助く」は英国の医師サミュエル・スマイルズの著書「Self Help 自助論」からの訳ですが、原著の持つキリスト教的なニュアンス(Heaven helps those who help themselves)は中村の訳では完全に東アジアの倫理観、もっと言えば儒教的なニュアンスを持った「天」の道に置き換えられているのが分かるでしょう。
そう、それくらい、日本人は西欧思想の根幹を、自分たちに肌合いが分かる言語と思想として150年前から肉体化してきている。
で、他の東アジア諸国では、下手をするとそれが丸々、全部抜け落ちて存在していない。
中国や韓国だけを取り上げて貶めるようなつもりは全くありません。
でも、日本人が徹底して消化している、こうした国際性は、昨日、今日作られたものでは全くないのです。
実はこの
「陽明学こそは日本の近代を支え、世界のトップランナーに日本を踊りださせた原動力」
という考え方は、刑法の團藤重光先生から徹底して強調されて学んだものでした。
山田方谷と吉田松陰のやり取りなども團藤先生から伺ったもので、本(「反骨のコツ」)にも収録されていますが、実は文献で確認したわけではありません。
■山田方谷の教えを受けた團藤重光先生
ただ、維新後の明治10年まで備中岡山で存命だった山田方谷を直接知る人たちから、大正2年に岡山で生まれた團藤先生は直接教えを受けておられます。
そして、ご自身の主要な仕事、團藤先生は敗戦後、GHQと粘り強く交渉しながら新憲法下での刑事司法を全面的に書き換える大仕事をされましたが、それを支えたのは方谷以来の陽明学そのものでした。
西欧の学術を接木の見よう見まねでやっていてもダメで、陽明学の本質、知行合一と自ら確かめたファクトがあれば革命もまた義なり、という確信があったからこそ、近代日本はこのように優れた、強い文化を作り上げてこられたのだ、と幾度も幾度も力説してこられました。
私が團藤先生のお供をさせていただいたのは先生が90歳を超えての10年弱でしたが、軽井沢などで現役最高裁判事の方が挨拶に来られたりする時、「陽明学」と言うと「はいはいはいはい」といった(おやおや・・・さすがの團藤先生も耄碌したかな、というような目の色が明らかな)反応を幾度も目撃しました。
中国も韓国も、古代に書かれた文字に縛られる伝統―権威追随の「朱子学」型の学術スタイルをいまだに引きずって、
西洋由来の学問を本当に消化することができずにいる。
それではダメだと思うのです。
西洋由来の学問を自分自身の血肉にするうえでは、「天は自ら助くる人を助く」という言葉の持つ2つの意味、元来のキリスト教の文脈と 、それが日本社会に完全に消化される経緯の双方をしっかり比較しながら理解できなければならない。
そうやって、フランス革命前後にヨーロッパで開花した法思想を、日本の国民感情のもとで民主的に運用して、判例を積み重ねながら法思想を成熟させていくことなどできるわけがない。
核のごとき主体的な知の力が必要不可欠なのに、今回の「裁判員」はM君あたりがまた・・・。
といった具合で特にキリスト教会に1000余年の歴史を持つ「陪審員制度」と比べて非常に不徹底と批判しておられた「裁判員」制度の具体的な細部を批判されつつ、本当に最後まで團藤先生は強調しておられました。
團藤先生は日本の刑法を書き直されましたが、ファクトに立脚して決然と「革命」も辞さないという反骨の思想と行動は。
自然科学系のノーベル賞業績のすべてに求められる、基本的な最低条件でもあるのです。
』
『
JB Press 2015.11.9(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45205
中国・韓国と日本を分けた「朱子学」と「陽明学」
中韓にノーベル賞が取れない理由
~團藤法学から日本の卓越性を探る
2014年に世間を騒がせたSTAP細胞詐欺事件に関連して、既存のホームページをコピー・ペーストして博士論文と称した件に関連して、早稲田大学はその事実があった学位について、適切な段階を踏まえて学位を撤回、剥奪したと報じられました。
早稲田の名誉回復のためにも必要な第一歩と思います。
また、早稲田大学に限らず、日本全国の大学院で、学位審査に伴って「コピペチェック・ソフトウエア」が導入されるなど、甚大な影響を生み出してしまった現状を見るにつけ、徹底した再発防止と、そもそもこのような情けない非生産的な事態を引き起こさない、抜本的な解決、人材育成と高度な研究成果創造という、学芸の王道をまっとうすべきと強く思います。
個人的な意見として、このような悪質な「コピーペースト」が発覚した時点で、不正行為を行った学生は学籍剥奪が適当と思います。
入試でいえば、カンニングに相当しますから、それがばれた時点で受験資格停止となりますから、全く相応と思います。
今回の早稲田大学の措置は、カンニングがばれた受験生に、1年の猶予を与えるからもう一度更改の余地を見せてみよ、とまで寛容に応じているもので、私がもし関連の問題収拾を担当したなら、学位以前に博士課程の最終試験受験資格、つまり学籍の抹消が適切、と答申を出すと思います。
なぜなら、このような事例を放置するなら「なんだ、あれでいいんだ」と後輩たちが錯覚し、累犯の再発を防ぐとことができないからです。
良くも悪しくも「前例」にひっぱられる日本です。
そういう「悪しき前例」を徹底して払拭することが、こうした病状の根治に必要不可欠と思います。
前例の尊重・・・。
今回は、この観点を巡って、ノーベル賞に相当するような学芸の創造性を考えてみたいと思います。
■不適切なシステムは不適切な結果を生む
このところ
「中国や韓国、台湾や北朝鮮の現状を見るに、
ノーベル賞などの評価に相当する研究成果を期待するのにはいくつか明確な難がある可能性」
を指摘しています。
誤解のないように再三強調しておきますが、これらは各々の国の文化や民族性、個人の資質などを指してものを言っているのではありません。
党が指導しドグマが承認しなければ是認されない意思決定システム、全体主義的な体制、個人の自発性や自由な創意工夫を尊重しない空気
・・・端的に言うなら「不十全な学術ガバナンス」が懸念される学術研究行政のもとでは、有産な成果を期待するのは難しい、
という観測を示しているものです。
事実、これらの国を飛び出し、自由の天地で存分に力を発揮して、大きな成果を挙げている人・・・科学者であれ、文学者、芸術家であれ・・・は枚挙の暇がありません。
拙劣な学術ガバナンスの状況で、有産な成果が得られにくい・・・。
当然のことであると同時に、これはまた、日本も同様に拙劣な研究行政の状況に陥るなら、同じような情けないことに容易に陥りう得るいう、警句を発しているつもりです。
実際、その実例のようにして2014年のSTAP細胞詐欺のような事態が発生してしまった。
徹底した再発予防の必要は言うまでもありません。
良くも悪しくも、無根拠な日本賛美などはできません。
実際、日本でもこのような研究不正は起きています。
きちんと自らを律し、価値ある成果を生み出す日本であり続ける必要があるし、それは対岸の火事見物ではなく、私たち自身が日々気をつけ、社会の高い意識レベルを維持、発展させていくべきものにほかなりません。
問題は、ある体制内での意思決定の機構、あるいはそれが持つ規範の性格です。
その意味で「朱子学」「陽明学」という團藤重光先生が指摘された東アジアにおける2つの端的な「官学」の差異を取り上げたのです。
■「朱子学型」のメリットは何か?
これもまた、決して史実や学問論として厳密な考証を経ての「朱子学」 あるいは「陽明学」そのものを論じているのではありません。
各々の学問が典型的に持っている性質、「タイプ」を抜き出して、問題にしています。
「陽明学」、古くは正確には「王学」と言うべきでしょうが、明治以降「王政復古の大号令」などで王という言葉を使った以上、中国由来の儒学改革派に「王学」の名は不適切だった可能性が考えられます。
実際、明治期の日本で「陽明学」という名前が新たに名づけられました。
過去の文献を尊重し、伝統の権威を第一にし、先王の教えを墨守することで得ることができるものが確かにあります。
端的には伝統的な第1次産業、弥生時代以来の「灌漑農法」を挙げれば十分でしょう。
毎年ある時期になったら種もみをふやかし、苗代を作り、代掻きをし、ある時期になったら田に水を引き、田植えをし、雑草を取り病害虫を防ぎ、豊かな実りはこの時期に収穫せよ、という「暦の支配」。
田植えも稲刈りも、伝統的な農耕は決して1人でできるものではありません。
村中総出で力を合わせて収穫を得、実りを祝い、農閑期には農閑期なりの仕事をこれまた分業する。
村祭りのようなものも含めて・・・。
また、共同体のタブーを犯すものがあれば「村八分」の扱いとするなど、良くも悪しくも封建農村が持つ、様々な特質を生かすうえで、儒学は有効な役割を果たします。
そう、孔子(BC.552~B.C.479)という人は紀元前6世紀の中国は魯の国で「古代の先王」に復古せよ、と儒学を立ち上げた人です。
孔子が理想とした「周初」とは紀元前1046年頃、つまり今から3000年以上も昔のことで日本の用語を用いれば「弥生文明」そのもの、原始人国家への回帰を掲げたと言って外れません。
あえて誤解を恐れず言えば、
儒教とは「弥生信仰」原始崇拝という明確な側面を持っている。
つまり灌漑に基づく大規模稲作農業によって原始の集落国家が成り立ち、人口の圧倒的割合を占める農民を統治するのに適切な「官学」を説いた人にほかなりません。
そんな孔子の時代から1500余年、農業もガバナンスもはるかに進んだ中国「南宋」で朱熹(1130~1200)が生み出した「朱子学」 にも、明らかな利点があったはずです。
実際、李氏朝鮮や明によって国の学と定められ、以後数百年にわたってそれらの国の繁栄を支えた朱子学。
日本でも徳川幕府が官学として朱子学を称揚している。
いったいその利点は何なのか?
専門的にはいろいろあると思いますが、團藤先生の考え方に従うとき「文書主義」が有効だったと思われます。
■文書主義の適否様々
いま仮に、ある架空の王国に法律も何もなかったとしましょう。
権力者はその時々の思いつきで統治し、一貫性もなければ整合性もない。
税金は思いつきで取り立てられ、犯罪があっても捜査は一貫せず、同じ罪を犯してもある人は重く罰せられ別の人は賞賛されて褒美を与えられる・・・。
そんなアンフェアな政治がまかり通れば、民衆の不満がたまり、やがて爆発して紛争が勃発するでしょう。
そういう「時代」が日本にも確かにありました。
大きく言えば飛鳥時代以前の日本には、成文法と言えるものは実質的に存在していなかった。
聖徳太子の「十七条憲法」が有名ですが、これは公務員の精神訓を列挙したような内容です。
それでも、まだ、文章として記録されていれば、その時々の思いつきで勝手に捻じ曲げられたりするリスクは低いはず。
当時の日本にはそれ以外に「法」と言える文書はほぼ存在しなかった。
掟のようなものは言い伝えとして残っていたかもしれません。
しかし正確に記録されていなければ、細かな整合性など取れるわけがない。
そもそも文字というものが当時の日本にはなかった。
人類の文化はみな、初めはそういう原始状態からスタートしたはずです。
話を東アジアに限ると、この状態を大きく打ち破ったのが「律令制」の導入だったと言えます。
つまり成文法によるシステマティックな統治の導入です。
いわゆる「大化の改新」から半世紀余、大海人皇子系の子孫たちは中国風の大規模な都を奈良に建設します。
「平城京」。
ここで初めて日本に本格的に導入されたのが「律令制」(大宝律令)でした。
中国の隋唐帝国の制度を模倣したものですが、これらの導入は孔子が生きた時代から1000年も経過した後であることに注意すべきでしょう。
あえて乱暴に言うなら
「朱子学」とは「律令国家」で文書主義を重視すべく改革された儒学で、
だからこそ官学として適切だった。
そしてその社会を支えるのは第1次産業、灌漑農法による米生産と、それに従事する圧倒的多数の農民を統治する、はっきり書いてしまえば「弥生時代以来」とも言える循環型社会を保守する訓古学として成功した「モデル」と言えます。
日本でも戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康が、長く太平の世、つまり循環的で乱高下には乏しい、しかし農業生産には適した治世を保つべく朱子学を官学に指定し、江戸幕府は260余年の命脈を保つことができた。
これに対して
東アジア社会で「実体が変化するときは、規範もまた動く」として革命を支持する学となったのが陽明学(「王学」)
であったと考えましょう、というのが「陽明学モデル」にほかなりません。
太平の世であれば、朱子学に基づく循環的=停滞的な封建農村支配が順調に回転することで「繁栄」が約束されます。
しかし乱世にはそうした理法は通用しません。
ここで「乱世」とは、単に戦国時代だけを指すのではありません。
イノベーションを念頭に置けば、私たち生きている現代の毎日、時々刻々がR&D(リサーチ&デベロップメント;研究開発)の乱世そのものであって、そこで生き馬の目を抜くリサーチ・ウオーズに勝ち残っていくには、文書主義程度まで進化した弥生時代崇拝という「朱子学モデル」、つまり伝統思考の停滞型意思決定、権威尊重で前例墨守の思考体制は、圧倒的に不利だ、ということを言っているのです。
実際いくつかの国では、こうした「前例重視の権威主義」や「停滞型意思決定」によって国の方針、特に学術研究政策の方向が決定されている懸念があります。
例えば「党是」というのも「前例」の一種であり「権威」として知の停滞に直結します。
それくらい、良い意味で突き放したドライな観点から、物事を見ていく必要性がある。
そして社会が動くなら、法も動くのが当然であるし、判例もまた同様である、
判例もまた動くものである・・・というのが、團藤先生がお考えになった「動態としての法」の考え方にほかなりません。
戦後すぐに作られた刑事訴訟法の条文が時代に合わなければ書き改めればよい、というのは小さいようですが「革命」です。
また同じ法の条文によりながら、時代が変化した結果、判例が墨守でなく「動く」ことがあっても当然である。
團藤先生はこうした考え方を「主体性理論」としてまとめておられますが、その根幹となるのは「心即理」として社会の実態と合理的に即応した法文化の考え方にほかなりません。
そして、これと同じことが文系理系を問わず、明治維新の時期を挟んで日本の知において徹底的に血肉化が図られた、その意味を捉え直すための「陽明学」であり「主体性理論」であり、「動く判例」である・・・そういうことを強くおっしゃっていました。
■民主主義とイノベーション:判例を「動かす」少数意見
このような團藤先生の思想を、まさに「知行合一」で具現化したのは、最高裁判事として書かれた「少数意見」でした。
ご存知のように「最高裁判例」は法と同等の重みを持って社会に規範を与えます。
立法府によらない、司法府が法の運用に当たって随時与えていく「社会の基本ルール」が最高裁判例にほかなりません。
しかし、この「判例」が悪しき「前例」となって、いつか社会背景が変わってしまい、時代に法が適合しなくなっても墨守される「朱子学的な足かせ」にならないための、民主主義の大切な仕かけ」が「少数意見」である、と團藤先生は幾度も強調されました。
朱子学タイプの発想は、下手をすれば容易に、弥生時代の原始人を理想化する奈良・平安朝の古代文書主義にまで退行してしまいます。
そんな「前例重視」「先例墨守」の考え方で、DNA鑑定だ何だと先端の科学や技術で社会の価値観はめまぐるしく変転する、現代の法文化が構成できるわけがない。だから「革命」の思想が必要だというわけです。
実際に細かく拝読はしていませんが、参加されたあらゆる最高裁の審理と判決で、特に少数意見をこそ大切に、1つの例外もなく丁寧に書き続けてきた、とのことです。
少数意見とは、最高裁判決で判事多数の合意を得られなかったマイノリティの見解にほかなりません。
これを「無」にしてしまうなら、多数派の意見で少数を圧殺してしまうわけで「全体主義」になってしまう。
「全体主義」の硬直した法制度がどんな困った事態を生み出してきたか・・・。
第2次世界大戦前に東京帝国大学法学部助教授に就任され、若くして旧刑事訴訟法のシステム化で大きな仕事をされた團藤先生は、法の柔軟性が大事と強調されます。
文献として遺され、未来を拘束する規範としての「最高裁判例」。
それが固定的で停滞したくびきとして日本を縛るのでなく、時代に即して動的に変化するチャンスを与えるもの。
それこそが「少数意見」である。
そこからあらゆる変革、革命が生まれる余地が出てくる、これこそが、戦後の新憲法体制下で日本がGHQと対峙して一歩も引かなかった「陽明学」の精神の骨法である・・・。
こうした趣旨のことを「反骨のコツ」を上梓した後の團藤先生は、口癖のように繰り返しておられました。
「陽明学に基づく自伝」を書く・・・最晩年の團藤先生はしばしばそうおっしゃり、担当編集者など、この言葉を耳にした人は少なくないと思います。
「口述筆記でも何でもお手伝いしますから」と幾度も申し上げましたが「もう少し山田方谷を読み直してから」とおっしゃいつつ、今記したような趣旨のお話を何度も伺い、結局まとまった原稿としてお遺しになることはありませんでした。
しかし「社会が動く」以上、停滞的な封建農奴支配に適した「朱子学」型権威主義と前例墨守の文書主義は常に疑われねばならない、
それが陽明学の発想であり、科学を含むあらゆる知の「革命」に必須不可欠な骨法
と、先生は強くおっしゃり続けました。
その極みと言うべき一言を「裁判員制度」が成立した直後、團藤先生は口にされました。
「ついに『精密司法』と呼ばれた、團藤先生の刑訴法の枠組みが変わってしまいましたね・・・」
と申し上げると、
「いいんです。
僕が書いたものなど、全部消してしまってかまわない。
時代が変わったのであれば、法は全部改めればいい。
ゼロから作り直して、それで良いものにしていけばよい。
あの時もそうだったんだから・・・」
あのとき、つまり占領軍と厳しい談判を繰り返しながら、戦後刑法の枠組みをゼロから作ったときと同じように、またゼロから「革命」していくことこそ必要なのだ・・・。
よくあるケースでは、自分の作った小さな業績などに拘泥してじたばたするのが人間というものでしょう。
とんでもない、実に清廉潔白、90代半ばの團藤先生はハイティーンの目をしておられました。
そして「それにしても維新の志士は恰好いいね」と笑われた。
何という潔い「陽明学」の徹底か・・・これが本物の器の大きさというものかと、心のの震えを覚えました。
』
『
JB Press 2015.11.13(金) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45210
中国・韓国と同じ罠にはまった日本人にはご用心!
中韓にノーベル賞が取れない理由~他山の石とすべし
確かに日本は現在まで、数多くのノーベル賞受賞でも分かるとおり、東アジアにおいて抜群の創造的知性を発揮して、近隣諸国を圧倒してきました。
しかし、それには理由があったわけだし、隣国がいつまで経っても個人が創造性を発揮できる社会体制を構築できないのにも、構造的な背景があるわけです。
そう考えると、決して中国や韓国の現状を対岸の火事と笑って見ていられない現実が分かるはずだと思います。
東アジア諸国が基礎科学で十分な成果を出すことができない大きな理由は拙劣な学術行政にあります。
■対岸の火事と思う人は危険
教育や研究の指導が根本的な限界を持っている。
だから成果が出ない。
業績を挙げにくい。
同じ研究者が海外に転出すれば、米国や欧州で豊かな業績を挙げることができる。
1957年に中国人としてはじめてノーベル物理学賞を得た楊振寧教授や李政道教授などは、シカゴ大学という場、エンリコ・フェルミやスブラマニアン・チャンドラセカールのような優れた師友を得て 、豊かな才能を一気に開花させました。
つまり教育や研究の指導が大事なのです。
逆に言えば、教育や研究の指導を誤れば、現在の中国や韓国が陥っている状況は決して日本にとって他人事でないのです。
すぐに二の舞を踏んでも、何の不思議もありません。
なんて一般論で言っても、ちょっと分かりにくいですし、実は同様の過ちを、私たちも日常生活で容易に犯してしまう危険が高い。
今回はそういう観点で物事を考えて見ましょう。
中国がダメで日本はイイ、のではありません。
いま中国や韓国が陥っているのと同じ「ダメ」を重ねると、日本でも同様か、それよりも酷い状態だって、容易に起きかねない。
「対岸の火事」と安心して見る人があれば、その人が一番、ハイリスク・グループに属している危険性が高いと思います。
「人の振り見て我が振り直せ」という視点で、いくつか具体的に考えてみましょう。
■身近によく見る「朱子学」タイプ
古代国家、特に農業国の統治では、灌漑農法など「この方法に従っていれば外れない」というルーチンがあり、その伝統が重んじられ、古くからの聖典が崇められ、新たな試みや実験は軽んじられ、権威がまかり通り、少数意見は無視されました。
しかし「ルーチン前提の農業社会」と言っても、天変地異など不測の事態はいつでも発生します。
地震、雷、火事、洪水、疫病、竜巻、土砂崩れ・・・。
自然災害から伝染病まで、様々に「予測がつかず」「目に見えない」災厄は、すべて「神」の怒りと解釈され、「占い」が実施されて、政治はそれによって大きく左右されました。
典型的な古代の神聖政治です。
鹿の骨などを焼いたり、竹の棒をごちゃごちゃやったり、まあ、することはいろいろですが、要するに確率的な結果が導かれ、そこから何らかの御託宣・・・「神託」が突然降ってくる。
そういうご託宣の一種として「改革開放」とか「大躍進」「批林批孔」とか(みな20世紀の中華人民共和国で出されたものですが)、さまざまなスローガンが降ってくる。
それ以外は「聖典」の遵守。
「保守」は文書主義で一言一句にこだわり、内容への整合した理解はしばしば欠如、
翻って「革命」は突然の思いつきであっても「古来この海域は我が国固有の・・・」といった御託宣が降りて来、一度やって来るとやたらとそれを振り回し、ブームが去って「違う」となれば手のひらを返すように変節して恥じることがない・・・。
紙の上で生きている「朱子学タイプ」には、こういうことが珍しくありません。
逆に「ファクト」に基づく「陽明学タイプ」は、こういう無節操なことは普通の神経ではできない。
だから自然と良心的な仕事となり、基礎科学で言えばノーベル賞に直結するような重要な成果、誠実な仕事の成果がコンスタントに生まれてくる。
逆に「朱子学タイプ」は紙一枚のことですから、話が変わればハイそれまでよ、で終わってしまう。
こういう「朱子学タイプ」対「陽明学タイプ」というコントラストから検討してみましょう。
前回も記した通り、
儒教というのは下手をすれば「弥生時代」崇拝のような教えですし、
それを奈良平安時代レベルの文書主義で固定化したのが「朱子学」タイプで、停滞期には適した考え方ですが、変化の時代には一種の思考の停止回路として機能してしまいます。
朱子学タイプの一大特徴は「実態を見ない前例遵守」と言えるでしょう。
仮に実験事実が明らかに資料と違っていても、まず「権威ある文献」が正しいと思い込む。
これ、現代の日本、ないし国際社会で考えるなら、本当に最悪と思います。
端的な例として放射能汚染とそれへのリアクションというケースで考えてみましょう。
■原発も放射能も「ファクト」を見よう
やや話が飛ぶようですが、私たち理学部で物理を学んだ者は、基本的に「人の言うこと」を信用しません。
自分で確かめて見て「ああ、そうなんだな」と初めて納得します。
3.11以降、福島のサポートで現地と往復した際には、いろいろなケースを目にしました。
「○○が××『らしい』」「△△が□□『だそうだ』」
こういう風聞の類を、私たちは基本一切信用しません。
むろん「きわめて危険と考えられる所」に丸腰で入って行くようなことはしませんが、実際に訪れる場所では、自分自身も線量計を携帯し、注意して正確に測定するよう心がけ、危険があれば回避するようにし、安全を確保しながら少しでも貢献するよう、努力しました。
こういうとき、原発推進側の人でも、反原発の人でも、データへのリテラシーがない人とはコミュニケーションが全く取れず、正直往生しました。
「あんなデータもある」「こんなデータもある」「かくかくしかじかだから安全だ/危険だ」
結論の最後の部分は、はっきり言ってほとんど無関係。
印刷してある、どこの誰がどうやって測ったかも分からず、しっかりした査読が行われたかも分からない「ペーパー」や「データ」など、理学の基礎教育を受けた人なら、最初から「疑ってかかり」真偽を確かめたうえでなければ、その結果に身を委ねるようなことは絶対にしません。
主張のいかんと無関係に(たとえば原発推進でも反対でも)目の前の現実をしっかり把握しようとせず、権威に寄り添う心情で判断、自分自身は一貫して思考停止したまま「専門家」と称する人の言うことを鵜呑みにする・・・。
これがまさに「朱子学タイプ」、もっと正確に言うなら「朱子学で統治されやすい古代農奴型」の思考と言うべきでしょう。
「データ」なり「ペーパー」なりを参照しているならまだマシで、風説、伝聞、メディアの垂れ流す情報で右往左往するとすれば「文書主義」の大宝律令以前と言うべきで、弥生人レベルの烏合の衆としか言いようがありません。
そして、大変残念なことですが、21世紀の日本人はケースによりこの「弥生人レベル」に容易に落ち込んでしまいます。
あの恥ずかしい「STAP細胞詐欺」の際の素っ頓狂なメディア報道や「くるくるぱあ」としか思えないコメントの数々は何と言うべきか?
科学以前の原始人相当、と言ってまず外れないでしょう。
■権威主義は自信喪失の裏返し
福島に関しては、私の物理学科時代の恩師、早野龍五先生など、早期から正確な測定装置を導入(しかも多額の自腹もお切りになって)され、実証的に安全を確保しながら(また、もし本当に危険となったらいつでも退避できるよう準備しながら)復興に貢献しておられる専門家がおられます。
早野先生には何のヒモもついていない。
早野さんは反粒子の実験物理学者で原子力との利害関係など一切なく、御用学者でも何でもない、サイエンスの王道で大きな業績をお持ちの公正中立な研究者ですし、またかつてガンに罹患され、それを克服された一個人としても、放射線と人間の関わりに真摯な思いをもって取り組んでおられます。
どこの誰がどう言ったとか「先王のたまわく、君子はどーぢゃらこーちゃら」と書いてあるのを「ははー」っと拝み奉るのは原始人に任せておくべきで、原子力とは無縁にしていただきたい。
実際に現場に装置を設置して常に「ファクト」を測定し続け、安全を確認し、また危険があればいち早く退避するという「致良知」を、千万オーダーからの私財も投じられ「知行合一」で実践されている早野先生の行動は、まさに今日的な観点での「陽明学」の実践と言うべきものだと思います。
早野先生や、先生が技術的なサポートもして、福島在住者の内部被爆を低レベルに抑えるよう、コンスタントに「ホールボディカウンター」でモニタし続けている南相馬総合病院の坪倉正治君など、私自身正確な測定の実際まで知る人々の努力に、典型的に目の前のものを 何も見ない権威主義型の蒙昧で、おかしないちゃもんがつけられるのを目にすることがあり、心が痛みます。
実のところ、21世紀の良心的な科学者や医師に、弥生人が土器を投げつけているようなもので、どちらにとっても不幸です。
現代の科学者だって弥生式土器を投げつけられれば怪我をしかねません。
大変な迷惑ですし、弥生レベルの装備では、放射能のリスクに対して様々な危険を避けられるわけがありません。
人は「危険だ」と言われると、「本当かな?」と心配になるものです。
「ガンの疑いがあります」と医者に言われれば、誰だって考えるでしょう。
原発などに関連して「危険だ」と指摘する文献を見つけると、その真偽も確かめずに鬼の首を取ったように喧伝する人を見かけますが、それがつまり「朱子学タイプ」権威妄信型の思考停止タイプであると、本人が気づいていないケースが非常に多い。
実は非常にしばしば、権威主義に走る人は自信がない。その裏返しで権威を盾に開き直ろうとする。
実際に測定して「ここまでは安全」と言っている人に「安全説論者」とレッテルを貼るような行動は、まさに裏返しの権威主義そのものです。
そういう状態に陥っている人はどこまでが本当に安全か危険か、実のところ分かっていません。
分からないまま叫ぶことだけに慣れている。
これはいけません。
末路は「狼が来た!」と叫び続けた少年と同じにならざるを得ない。
是々非々、可能である限り、一つひとつ「ファクト」を確認し、「権威ある聖典」などはおよそ鵜呑みにせず一言一句疑ってかかる。「方法的懐疑」の精神と思想が、今日の学術を作り上げています。
放射能に限らず、身近に危険が迫っているような場合には、常に目の前をしっかり見て判断・行動すべきでしょう。
■判断の根拠はどこにあるか?
少し前、何人かでレストランに入った時、店の人に食材の産地を尋ねる人がありました。
放射能汚染に過敏な人で、少しでも怪しいものは口にしたくない、という発想。
妊婦さんなどがそういう考え方になるのは、心情的には分かります。
でも、仮にウエイターなり板前さんが「これは群馬産」「これは茨城」と口頭で答えたとして、「それがどれくらい信用できるか?」と、私などは考えてしまいます。
ウエイターは別に嘘をつく必要はない。
でも「××産」と書かれているものが本当に「××産」かどうか、どうやって確かめられるのか?
そういう「産地」などではなく、危ないと思ったら実際に自分で本当に測って見ればいいではないか・・・そんなふうに私は思ってしまいます。
「風説」が広がる1つのケースかと思いました。
リハーサルが詰まるなどして時間がない時、私はしばしばコンビニのおにぎりを食べます。
で、コンビニのおにぎりは軒並み「福島産の米だ」から「やめておいた方がいい」と忠告してくれた人がありました。
心配してくれるのはありがたいことで、そこには感謝もしたいのですが、じゃあ福島の米ならいかんのか?
実際に出荷されているということは、少なくともチェックに引っかかるような放射線量など出ているわけがなく、ファクトを見ずに風説だけで除外するようなことは、どうなのだろう・・・と正直私は思います。
少なくとも私は、明日以降も普通に、必要があればコンビニのおにぎりを食べるだろうし、(あまり健康に良いものではないかもしれないけれど)陰謀説めいて忌避するようなものでは全くないと思います。
他人から伝聞で聞いた食材の産地を、確かめもせず鵜呑みにして風評被害を拡大させるような行動、これも典型的に「朱子学タイプ」と思います。
実際に自分の目で確かめ、確信をもって危険だと判断すれば、決して食べない、で当然と思いますし、調べたつもりにもならない、根拠の存在しない風説で判断を右左すれば、確かなものは何も出てこない。
「朱子学タイプ」が否生産的になる道理です。
実のところ先入観、それと紙の上の知識、そして何より「ファクト」を見ない。
何となく人の言うことを前提に判断を下していて、でもその「人」の言葉がどれくらい信用できるか、などは考えていない・・・。
物理学科で最初に「これはしてはいけない」と教わる種のことが幾つか含まれている。
これでは、守れる安全も守れなくなってしまいかねません。
大事を取って危険は大きく回避した方がいい・・・もちろんそういう局面があります。
そういう時、何をもって「大事を取る」か、その根拠は「知行合一」自分自身でしっかり確かめて、初めて確信をもって決断を下せるものになります。
そうでなく、人のうわさであっちチョロチョロこっちチョロチョロ、といった行動を取っていると、天変地異のような状況では典型的に烏合の衆で、大きな危険に巻き込まれる危険性が高いことが懸念されます。
正直心配です。
冷静沈着に行動する人は、落ち着けるだけの根拠をファクトに求める習慣を持っているものです。
山で道に迷い、方位磁針はないけれど、腕時計は持っていて太陽の位置はあっちだから、こちらに進めば間違いない・・・。
このような、時々刻々の判断と行動、そういうものを「知行合一」の陽明学タイプと言うべきで、「よく分からないから誰か分かる人に聞いて、その人の言う方に進もう」という意見があれば、ファクトの根拠を欠く朱子学タイプと呼んで外れないでしょう。
■ネット時代の個人リテラシー
こんなことを言うと「伊東さんは理科を勉強したからいいかもしれないけど、私たち一般ピープルには・・・」なんて言われることが、実のところ少なくありません。
でも、どうなのでしょう?
いま私がここで触れたような「理科」は大半が初歩的なものです。
分からなかったららネットで調べることもできる。
いい加減なブログなどでなく、学校や研究機関が出しているホームページであれば、そんなに外れた内容でないことが期待できるでしょう。
そういうものを「鵜呑み」にするのでなく、疑い確かめながら調べていく。
そういう「自ら調べ、自ら学ぶ」プロセスを、面倒くさがっているだけ、というケースが、実は大半なのではないでしょうか?
放射能汚染も同様です。
ある食品の含有放射線量を本当に調べようと思ったら、いくらでも方法はあるわけで「いちいちそんなのやってられっかよ」という思考停止、横着と無根拠の断定が、おかしな権威主義の迷信をのさばらせているのではないか?
STAP詐欺では、サイエンスの中身と無関係に「イメージ」であれこれ言う人がありました。
文書主義、朱子学以前の弥生人的先入観、そんなものでサイエンスが左右されるべきものではありません。
最近は様々な病気を早期に発見できるようになりました。
ネットも玉石混交ではありますが、難病などについては日本語のページでも正しい情報も十分整っている。
そういうものを、きちんと直視し「自ら調べ、自ら学ぶ」人と、そうでない人とに別れるように思います。
自分のことだからいいじゃないか、という意見も耳にしますが、本人が自暴自棄になったりすると、迷惑するのは家族です。
私の母も糖尿病でしたがきちんとした養生をせず、正直大いにケアにてこずらされました。
ファクトを直視し、そこできちんと考えるというのは、実は勇気がいることなのかもしれません。
でも、するとしないとで正反対の結果、成功と失敗の違いが出て不思議でありません。
叱らず、むしろ子供に学べ
もっと身近に考えてみましょう。
親として、子供に「勉強しなさい」と言ったりしませんか?
下手をすると簡単に「朱子学タイプ」中韓に研究腐敗を引き起こすのと同じ土壌を、自分の家の中に作っている危険性があります。
親が子供の勉強している内容を理解せず、分からないことについて「勉強しなさい」と言うのは、ファクトに即さないという意味で極めてマズい「朱子学タイプ」に直結します。
紙の上の勉強をペーパーテストで判別し、合ってる間違ってるで点だけつけて、次いってみよう!という悪循環、これはダメ人材を作る最悪教育法の一典型にほかなりません。
もちろん中学上級や高校生ともなれば、子供が学校で習ってくる内容を親が知らなかったり、理解できなかったりすることがあるでしょう。
そういう時、分からないことについて「親」として上位に立って「ああしろ、こうしろ」と言うと、中身のない朱子学官僚と変わらないことになってしまいます。
気の利いたお父さんお母さんには「一緒に勉強してみよう」とか、子供に「どういうことか教えてくれる?」と尋ねるケースがあるように思います。
ちなみに教師だった私の母はしばしば私に母を「教えさせ」ました。
頭ごなしに「勉強しろ」と言われたことは母の生涯で一度もありませんでしたが、母相手に教えねばならぬと準備せねばなりませんから、当然勉強することになります。
同じことを私は教授職として学生に訊ねます。
「あまり詳しくないんだけど、教えてくれないかな?」
「調べておくように」と上から言うより、よほど効果があります。
これは保障します。
逆のパターンを考えてみましょう。
子供が勉強している内容を一切知らず、ファクトに基づかずに「点数」とか「○○高校合格率80%」とか、鹿の骨を焼く占いみたいな、実際ほぼ無意味な数字だけ見て、子供にあれこれ文句を言ったり、酷い場合には叱ったりすることはないでしょうか?
こうなると、朱子学以前の「弥生人的」迷妄に陥っていると言わねばなりません。
中身を理解している指導者が、分かったうえで、共感をもって優しくケアして子供を伸ばす状況を考えましょう。
逆は明らかです。
中身を理解していない親が、何も分からないまま、感情的に子供を叱責すれば、萎縮して伸びなくなり、まともなことはせず点だけ取ろうとします。
例えばカンニングであれ、学位論文でのコピーぺーストであれ、ES細胞を使った実験詐欺であれ・・・。
これら「ファクト」と無関係な評価で子供を蹂躙するなら、柔軟な思考力を持った優れた若者が育ち、伸び伸びと活躍することはほとんど期待できないでしょう。
虐待そのものと言ってもいいかもしれない。ア
カデミック・ハラスメントです。
同じようなことは、いまの世の中にないでしょうか?
仕事の中身を理解していない上司が、何も分からないまま、感情的に部下を叱責すれば、萎縮して伸びなくなり、まともなことはせずただ成果だけ上げればよいと考えるようになりかねません。
例えば不正経理であれ粉飾決算であれコンクリート打ち込みのごまかしであれ・・・。
これら「ファクト」と無関係な評価で部下を蹂躙するなら、柔軟な思考力を持った優れた人材が育ち、伸び伸びと活躍することなどほとんど期待できないでしょう。
虐待そのものと言ってもいいかもしれない。
パワー・ハラスメントです。
そんな「弥生式土器」の水準で右往左往していては、日本だって実に簡単に、中国や韓国をどうこう言える立場や状況ではなくなってしまいます。
目の前を見据え、足元から考える。「陽明学」などと言うと「古臭い」と見もせずに馬鹿にする人もいるでしょう。
でも「知行合一」の教えはそれを教えているわけで、ファクトを見もせずバカにする人は、その時点で原始人と差がなくなっているのかもしれないのです。
』
『
JB Press 2015.11.16(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45273
日本は中国とは違う、
西欧に一目置かせた伊能忠敬
中韓にノーベル賞が取れない理由
~世界を驚かせた日英同盟
20世紀の日本は、非常に高い成果を上げる人材を多数輩出してきました。
いま日本人がノーベル賞を筆頭に、内外で高い評価を受けるのは、そうした過去に育てた人材による業績に対してであることを忘れてはいけません。
翻って若い人材はどうか、と考えると、STAP細胞詐欺を筆頭に、多数の「コピペ博士論文」が疑われたり、「ゆとり」世代の基礎学力不足が指摘されたり、と必ずしも目先の明るい話ばかりではありません。
この先、本当に創造的な人材を輩出し続けていくなら、21世紀、22世紀の日本の基礎科学、本質的な学術の未来は明るいものになるでしょう。
また、過去の遺産を食い潰すような教育、研究の指導行政に陥ってしまうなら、未来は暗いものになると言わざるを得ません。
では、本当に創造的な人材を育てるとは、いかなる教育であるか――。
伊能忠敬から榎本武揚、そして明治の「カウンターマジョリティ」へとつながる「日本を支えた知の系譜」の成功と失敗を検討して、明るい未来を目指す具体的な形、「ファクト」に基づく人材育成を考えてみたいと思います。
■典型的更新国型教育とは何か?
ここではまず反面教師から見ておきましょう。
世の中には、典型的な「後進国型の教育」というものがあります。
後進国とは、すでに先進国がある状況で「追いつけ、追い越せ」とシャカリキになっている国であり、そこでの研究教育の指導体制と考えることにしましょう。
特徴は、
精神的な余裕がないこと、
そして膨大な量の知識を表層的に問う、ペーパーテストのがり勉を強要すること
にあります。
管理教育と言ってもいいでしょう。
何の必然性があるのか、よく分からない、断片的な情報を膨大に紙の上の知識として詰め込み、その合否だけを浅く問う詰め込み教育。
中国、韓国に限らず、途上国で「エリート選抜」と言うと、この種のペーパーテストと、それによる選別で社会的な地位や収入などが分かれてしまう学歴社会。
家族総出で子供のテストのカンニングを支援するような事態がいくつかの発展途上国で見られ、そうした報道を目にすることがありますが、この種の情けない事態が笑えないのは、子供の「その先の人生」が、そんな程度のことで左右されてしまうからにほかなりません。
つまり、社会体制として拙劣なのです。
こういう制度で育てられ、浅い紙の上の知識でその場を誤魔化しただけなのに「人生の成功体験」と勘違いした人は、生涯の不幸を背負いかねません。
と言うのは、断片的ペーパーテスト主体の教育で育った人には、応用力が欠ける場合が多いからです。
一問一答で、すでに正解があるような質問には、とくとくとして答えます。
この種の「人材」は「物知り」ではある。
しかし、ほんのちょっとでも状況が変わると、こういう教育では応用が利かない人が少なくない。
端的に言えば、過去問が存在しないと答えが出せない。
「チャート式」で正解をあらかじめ教えてもらっていないと、何も答えが導けない。
前例がないと判断業務を遂行できない。
先例があればそれをなぞることでどうにか仕事を回していく・・・。
こんなふうに書くと、だんだん実態が分かってくるかと思います。
これは単に歴史の現実に過ぎませんが
「典型的な後進国的教育」を率先して進めていたのは、実は明治以降の日本が筆頭
といって過言ではないのです。
「富国強兵」「殖産興業」――。
近代日本が掲げたスローガンと、その元で薩長閥政府が推進した教育制度は、典型的な「ダメ人材育成」の制度でした。
中国、韓国をはじめとする東アジア諸国は、何だかんだと言いながら日本を徹底して模倣します。
例えば韓国の半導体産業にどのようなオリジナリティがあるか、どれくらい日本から丸々コピーしているか、といったことを考えてみると、実態は明らかと思います。
日本のある種の人々が振り回す「ヘイト」中韓への嫌悪には、近親憎悪の面があるように思われてなりません。
「元祖詰め込み教育」は日本にその根の1つがあります。
そしてこの拙劣な教育は日本でも多大な負の遺産を作って来ました。
「ゆとり教育」にしても、元来はそこからの脱却、つまり余裕のない浅い紙一枚のがり勉を克服するために有馬朗人、寺脇研といった人々が導入したもので、その志は元来大変立派なものだったのです。
その結果がどうであったかは全く別ですが、本来の動機として教育を良くしようとして導入された改革であったことは間違いありません。
■「国策」から「天の理法」へ、伊能忠敬はなぜ測量したか?
明治新政府がそうそうに「学制」を導入したのは賢明な施策だったと思います。
すべての国民に等しく教育を施す、例えば文字の読めない人をなくし、民度の高い社会を作り出す基盤が整えられたのは、日本にとって幸運なことでありました。
しかし、たび重なる明治初期の政変で多くの有為の人材は政府を去り、民間で反骨の志を貫いて大きな成果を得ています。
少し前に記した北里柴三郎は典型的でしょう。
すでに熊本での少年時代、オランダの恩師から、世界トップ水準の教育を施された北里は「日本の夜明けは近いぞ!」と鞍馬天狗のおじちゃんに教えられた杉作少年(大仏次郎が幕末の志士活躍を描いた小説「鞍馬天狗」の描写ですが)のようなもので、本物の高い志を持った例外的存在、マイノリティだったわけです。
幕末期に西欧に送られ、最新学術を学んだ西周、中村正直、榎本武揚といった人材は、明治以降の政府で決してマジョリティではなかった。
榎本武揚(1836-1908)のケースは典型的でした。
彼の父、箱田良助(1790-1860)は備後の国の庄屋の次男で、武士ではありません。
千葉の九十九里で名主・造酒屋の家に生まれた伊能忠敬(1745-1818)のアシスタントとして、西欧由来の進んだ測量で日本地図を完成したのが箱田良助で、榎本はその息子にほかなりません。
伊能もまた、武士ではありませんでした。
今の千葉と茨城の県境、下総国佐原の造酒屋に婿養子で迎えられ、前半生はビジネスで成功した人物です。
当時の佐原は天領、つまり幕府直轄地で、水郷の商都で、武士はほとんどおらず、町人が合議して自治的に共同体を運営していた。
その佐原で名主として40代までを過ごした伊能は、50歳にして江戸に出「隠居仕事」として天体観測と暦を学び始めます。
が、ここで注意しておくべき要点があるのです。
伊能は紙の上の勉学だけでなく、毎日精密な天体観測を徹底して行ったという事実です。
18世紀末、江戸にはすでにティコ・ブラーヘとヨハネス・ケプラーの精密な天体観測がもたらされていました。
50歳を過ぎた伊能は、紛うことなくグローバルに先端的の精密科学に「隠居仕事」一切の営利と無関係なライフワークとして取り組みます。
江戸幕府の封建制が十分腐敗していた時代、そうした雑事を離れ、まさに「天の理法」に基づく宇宙の正しい秩序を「観測」、ファクトに基づいて知りたいと思った・・・ここに彼の「動機」が周囲の凡俗と隔絶していたポイントがあります。
伊能と、19歳年下ながら彼の師であった幕府天文方の高橋至時(1764-1804)は、正確な暦を作成するうえで地球の子午線の長さを正しく知りたいと思っていました。
純粋に科学的な興味であり動機です。
彼らは地球が球体であることを知っていました。
球体なのに人も水も「下」に落ちては行かない(実は中心に向かって落ち続けているわけですが)なんて不思議なことでしょう。
幕末の科学者たちは純然たる世界の不思議に胸を躍らせました。
50を過ぎて私財を投じ永遠の理法に夢を持つ伊能、そんな「弟子」を持って宇宙の不思議に純粋な疑問を持つ高橋至時。
■「地球というのは、本当はどれくらいの大きさを持つのだろう?」
それを知りたい、という動機を持った彼らに「蝦夷地にロシア人出没」という報が寄せられます。
ロマノフ朝ロシア帝国の特使ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきたというニュースです。
鎖国体制とはいえ、幕府は喫緊の事態に対策を立てねばならなくなりました。
通商であれ海防であれ、はたまた軍事であれ、基本となるのは「地図」です。
可能な限り正確な蝦夷地測量の必要性が生じました。
「これを利用しない手はない」と考えたのが高橋と伊能だったわけです。
彼らは必ずしも測量だけがしたかったわけではない。
蝦夷地と江戸という長い基線距離があれば、天体観測を通じて地球の大きさを知ることができます。
「子午線1度の距離を測りたい」というのが彼らの本当の願いでした。
子午線、つまり赤道と同じく地球全体の半径による「天体の大円」の大きさが分かれば、その表面の1点に過ぎない江戸や長崎、蝦夷地などでの天体観測結果から、さらに精緻な暦を得ることができます。
従来の経験的な数値はどれも信用するに値せず、高橋も伊能もこれが不満でした。
地球というものの果てしない全体像を知りたい・・・この、営利も政治もへったくれも関係のない純粋な情熱を胸に秘めながら、「ロシア船来航」という現実への対応策として、高橋は幕府に「蝦夷地測量」の計画を提出したのです。
やや難航したものの、許可が下り、伊能たちは北海道に向かうことができました。
若い時から数術が好きだった伊能忠敬は、このときすでに55歳になっていました。
■ダブルスタンダードが生んだ豊かな成果
55歳の伊能たち一行は、昼は測量をしながら海岸沿いを進み、夜は天体観測するという旅を続けます。
幕府が求めるのはあくまで「地図」という紙一枚のことですが、伊能にとってこの「地図」は平面ではありませんでした。
あくまで地球という不思議な球体の直径を知りたいという「別の目的」、宇宙への夢が彼に年齢を忘れさせたのだと思います。
役人は平面で地図ができればよいと思っていた。
伊能たちとは、最初から次元が違っていた。
ローカルな2次元思考の幕府を超えて、科学者たちは球面としての地球を考え、大宇宙を航行する天体の運動を、できるだけ離れた距離から正確に観測したいという「本当の動機」を持って、異常なほどの正確さをもって北海道を測量したわけです。
道路などおよそ整備されていない18世紀の蝦夷地のことです、歩けない海岸線は迂回せざるを得ませんでした。
大変な行程ながら、120日ほどで第1次測量はひとまず終了、全行程も半年程度で、江戸に戻って20日ほどの集中した作業で伊能版の蝦夷地詳細地図が作成されました。
この功績が認められて伊能は苗字帯刀を許されています。
武士の形になりますが、およそ幕藩体制の閉鎖的な思考とは無縁の新人類が、50代の青春を迎えていたわけです。
この蝦夷地測量で作成された地図は詳細を極め、平面思考とはいえ幕閣は驚嘆、海防の必要からさらなる測量の打診が高橋と伊能に寄せられます。
伊能たちはすでに思考がグローバルになっており、前回歩けなかった海岸線も踏破できる測量船を仕立てての精密測定を計画しますが、平面思考の幕府には通じません。
この計画は後に間宮林蔵によって実現されますが、間宮は伊能の弟子たちと政治的に鋭く対立し、のちの「シーボルト事件」が引き起こされてしまいます。
逆に本土の精密測定なら脈がある。
ならば、ということで、そうした政治の圧力も追い風に、伊能たちは三浦半島、房総半島、伊豆など江戸近郊の精密な地図を作成します。
そしてその間、毎晩毎晩、日本全国の至る所で伊能は天体観測を続けました。
高橋は幕府の「天文方」であり、測量に必要ということで、必ずしも面従背反ということではないにせよ、伊能測量隊は各地での天体観測に「本当の情熱」を燃やし続けます。
その結果「子午線1度」の値が「北海道ルート」のみならず「下田ルート」などからも求められ、値の比較が可能になりました。
実にまともなサイエンティストの思考です。
高橋はオランダ由来の資料に記された値と自分たちの得た複数のデータを比較、それらの一致を見て大いに喜んだと伝えられます。
が、そんな高橋至時は1804年40歳の若さで急逝、この年の秋、伊能版の東日本地図が完成し将軍家斉に報告、西日本の地図も作成せよ、ということになり、結局11年の歳月をかけて測量が行われました。
これらのデータをつなぎ合わせて1枚の地図を作るには、曲面を平面に投影する技術が必要ですが、伊能はメルカトル図法などの技法に通じていませんでした。
70を過ぎてもこうした新たな数術に情熱を燃やした伊能でしたが、結局1818年、73歳でこの世を去ります。
が、政治状況を考慮して伊能の死は伏せられ、3年後の1821年「大日本沿海輿地全図」(伊能図)と名づけられた「国家機密」の地図が完成します。
これをまとめ上げ、高橋至時の遺児、景保をサポートしたのが現在の広島、福山出身の箱田良助ら伊能の弟子たちで、箱田は4年後に幕臣榎本家の株を購入、旗本として幕府勘定方を務めます。
箱田は結局、幕末開国後の1860年、71歳で亡くなりました。
この箱田良助=榎本武規が46歳になって設けた「遅い子」が釜次郎こと榎本武楊で、父の没後、ちょうど「桜田門外の変」の直後の時期、米国留学が決定します。
しかし、米国では南北戦争が激化の最中であったことからオランダ留学に切り替えられ、ハーグで化学や国際法などを学ぶことになるわけです。
■世界が日本を高く評価した理由:
シーボルト事件から日英同盟まで
伊能の没後に完成した日本地図は日本の歴史を大きく動かしていきます。
国家の最高機密であったこの図のコピーが、完成からたった7年後の1828年、オランダ商館の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの荷物の中から見つかったのです。
高橋至時の遺児、幕府天文方の高橋景保(1785-1829)がこれを渡したものとされ、景保は捕らえられて獄死、背景には間宮林蔵との政治的確執などがあったとも伝えられます。
シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。
が、何だかんだ言いながら、優れた情報はコピーされ、外に出て行くものと相場が決まっているようです。
伊能図は1830年頃には欧州にもたらされ、その精度の高さは驚嘆をもって評価されます。
とりわけ伊能図を評価したのは英国海軍だったと伝えられます。
世界帝国の覇権政策の中、日本の科学技術は決して侮ることができない、という政策上の大きな判断が下されるに当たって、伊能図の持つグローバル最先端の技術水準は決定的な役割を演じました。
でも伊能自身にとっては、それは仕事の副産物に過ぎなかった。
本当に彼を突き動かしたのは
「地球って本当はどんな大きさなのだろう?」
「ケプラー法による天体観測の真の精度を極めたい」
という純粋な情熱だった。
その品位を「貴族の遊び」としてサイエンスを推進していた19世紀英国の知性は鋭く察知したのかもしれません。
「この相手は侮ると大変なことになるかもしれない」
英国は一方で1840年以降、アヘン戦争~アロー号事件~アロー戦争と、清朝と戦い、これを勢力化に置いていきます。
一方、日本に対しては1853年、米国大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーが来航、不平等条約が押し付けられはしますが、対中国のケースのような露骨な「植民地支配」という魔手はついぞ伸びることがなかった。
なぜなのでしょう?
19世紀最末年に至って、日本は欧州の代わりに清朝と戦ってこれを破るといった役回りを演じることとなり、日清戦争終結後、賠償金で八幡製鉄所を作り京都大学を作り、20世紀に入ると英国は数百年に及ぶ「光栄ある孤立」政策を放棄、日英同盟を結んで世界を驚かせます。
どうして極東のハラキリ部族と同盟など結ぶのか?
その背景にあるのは、決して幕閣の鎖国政策でもなければ、内乱を制した明治新政府の薩長閥の政策への評価などでもない。
伊能図が端的に示す、日本の知がグローバルに見て最先端を牽引するに足る可能性、ポテンシャルを持っていることが、非常に大きな意味を持ったのではないか?
実は私自身も英国国教会信徒の家に生まれて4代目にあたり、関連の話題で英国の大学と相談を始めたプロジェクトなどもあるのですが、伊能図が典型的に示すように18世紀の時点で日本はすでに、世界最先端をリードする科学の芽を十分育んでおり、それが適切に国際社会に共有されたことで、国を救った面が多々あると思うのです。
■果たして清朝時代の中国に「伊能図」があったか?
李氏朝鮮時代の韓国・北朝鮮に関孝和の和算はあったか?
関はニュートンやライプニッツより早く、全く独立に日本で微分法を編み出した数学者で「微分」という言葉も関の「発微算法」に由来するものと思われます。
こういった国情に国際法のオランダ、世界帝国の英国が通じており、日本は決して侮ることができない最先端の科学技術国たり得る存在と牽制されたことが、20世紀以降の日本の圧倒的な発展を準備する、大きな背景になっていたのではないか?
実は歴史を詳細に紐解けば、中国にも韓国にも伊能や関に当たる人物がいたのかもしれません。
でも不幸にしてそういう人たちの仕事は世界に共有されず、アロー戦争以降の中国はますます帝国主義列強の草刈場となり、19世紀後半の李氏朝鮮の国情も末期的で、結局清朝の崩壊と前後して日本の併合という憂き目に遭うことになってしまいます。
伊能も関孝和も、また明治以降の榎本も北里も、紀州藩の儒者の家に生まれた湯川秀樹博士にしても、およそ日本の政治的マジョリティではなかった。
封建制度の中で体制内の「勝ち組」として胡坐をかいた集団ではなく、地球の本当の大きさと宇宙の構造に夢をもって何千万歩という距離を「歩いて」測量し、天体観測し、そうやって得られた「ファクト」に基づいて人類史の知見を前に進めてきたマイノリティ。
少数の例外で、これら「カウンター・マジョリティ」が世界で最高の評価を受けることで、ここ200年来の日本が人後に落ちない国として、世界から一目置かれる存在であることを、許されてきたのではないか?
ですから、そういう「本物」ファクトに基づいて世界をリードする、少数かもしれないけれど明らかにグローバルなイニシアティブを取れる「カウンター・マジョリティ」の人材を育て続ける「本物教育」の灯を絶えさせないことが、何より重要だと思うのです。
』
【輝ける時のあと】
JB Press 2015.11.9(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45205
中国・韓国と日本を分けた「朱子学」と「陽明学」
中韓にノーベル賞が取れない理由
~團藤法学から日本の卓越性を探る
2014年に世間を騒がせたSTAP細胞詐欺事件に関連して、既存のホームページをコピー・ペーストして博士論文と称した件に関連して、早稲田大学はその事実があった学位について、適切な段階を踏まえて学位を撤回、剥奪したと報じられました。
早稲田の名誉回復のためにも必要な第一歩と思います。
また、早稲田大学に限らず、日本全国の大学院で、学位審査に伴って「コピペチェック・ソフトウエア」が導入されるなど、甚大な影響を生み出してしまった現状を見るにつけ、徹底した再発防止と、そもそもこのような情けない非生産的な事態を引き起こさない、抜本的な解決、人材育成と高度な研究成果創造という、学芸の王道をまっとうすべきと強く思います。
個人的な意見として、このような悪質な「コピーペースト」が発覚した時点で、不正行為を行った学生は学籍剥奪が適当と思います。
入試でいえば、カンニングに相当しますから、それがばれた時点で受験資格停止となりますから、全く相応と思います。
今回の早稲田大学の措置は、カンニングがばれた受験生に、1年の猶予を与えるからもう一度更改の余地を見せてみよ、とまで寛容に応じているもので、私がもし関連の問題収拾を担当したなら、学位以前に博士課程の最終試験受験資格、つまり学籍の抹消が適切、と答申を出すと思います。
なぜなら、このような事例を放置するなら「なんだ、あれでいいんだ」と後輩たちが錯覚し、累犯の再発を防ぐとことができないからです。
良くも悪しくも「前例」にひっぱられる日本です。
そういう「悪しき前例」を徹底して払拭することが、こうした病状の根治に必要不可欠と思います。
前例の尊重・・・。
今回は、この観点を巡って、ノーベル賞に相当するような学芸の創造性を考えてみたいと思います。
■不適切なシステムは不適切な結果を生む
このところ
「中国や韓国、台湾や北朝鮮の現状を見るに、
ノーベル賞などの評価に相当する研究成果を期待するのにはいくつか明確な難がある可能性」
を指摘しています。
誤解のないように再三強調しておきますが、これらは各々の国の文化や民族性、個人の資質などを指してものを言っているのではありません。
党が指導しドグマが承認しなければ是認されない意思決定システム、全体主義的な体制、個人の自発性や自由な創意工夫を尊重しない空気
・・・端的に言うなら「不十全な学術ガバナンス」が懸念される学術研究行政のもとでは、有産な成果を期待するのは難しい、
という観測を示しているものです。
事実、これらの国を飛び出し、自由の天地で存分に力を発揮して、大きな成果を挙げている人・・・科学者であれ、文学者、芸術家であれ・・・は枚挙の暇がありません。
拙劣な学術ガバナンスの状況で、有産な成果が得られにくい・・・。
当然のことであると同時に、これはまた、日本も同様に拙劣な研究行政の状況に陥るなら、同じような情けないことに容易に陥りう得るいう、警句を発しているつもりです。
実際、その実例のようにして2014年のSTAP細胞詐欺のような事態が発生してしまった。
徹底した再発予防の必要は言うまでもありません。
良くも悪しくも、無根拠な日本賛美などはできません。
実際、日本でもこのような研究不正は起きています。
きちんと自らを律し、価値ある成果を生み出す日本であり続ける必要があるし、それは対岸の火事見物ではなく、私たち自身が日々気をつけ、社会の高い意識レベルを維持、発展させていくべきものにほかなりません。
問題は、ある体制内での意思決定の機構、あるいはそれが持つ規範の性格です。
その意味で「朱子学」「陽明学」という團藤重光先生が指摘された東アジアにおける2つの端的な「官学」の差異を取り上げたのです。
■「朱子学型」のメリットは何か?
これもまた、決して史実や学問論として厳密な考証を経ての「朱子学」 あるいは「陽明学」そのものを論じているのではありません。
各々の学問が典型的に持っている性質、「タイプ」を抜き出して、問題にしています。
「陽明学」、古くは正確には「王学」と言うべきでしょうが、明治以降「王政復古の大号令」などで王という言葉を使った以上、中国由来の儒学改革派に「王学」の名は不適切だった可能性が考えられます。
実際、明治期の日本で「陽明学」という名前が新たに名づけられました。
過去の文献を尊重し、伝統の権威を第一にし、先王の教えを墨守することで得ることができるものが確かにあります。
端的には伝統的な第1次産業、弥生時代以来の「灌漑農法」を挙げれば十分でしょう。
毎年ある時期になったら種もみをふやかし、苗代を作り、代掻きをし、ある時期になったら田に水を引き、田植えをし、雑草を取り病害虫を防ぎ、豊かな実りはこの時期に収穫せよ、という「暦の支配」。
田植えも稲刈りも、伝統的な農耕は決して1人でできるものではありません。
村中総出で力を合わせて収穫を得、実りを祝い、農閑期には農閑期なりの仕事をこれまた分業する。
村祭りのようなものも含めて・・・。
また、共同体のタブーを犯すものがあれば「村八分」の扱いとするなど、良くも悪しくも封建農村が持つ、様々な特質を生かすうえで、儒学は有効な役割を果たします。
そう、孔子(BC.552~B.C.479)という人は紀元前6世紀の中国は魯の国で「古代の先王」に復古せよ、と儒学を立ち上げた人です。
孔子が理想とした「周初」とは紀元前1046年頃、つまり今から3000年以上も昔のことで日本の用語を用いれば「弥生文明」そのもの、原始人国家への回帰を掲げたと言って外れません。
あえて誤解を恐れず言えば、
儒教とは「弥生信仰」原始崇拝という明確な側面を持っている。
つまり灌漑に基づく大規模稲作農業によって原始の集落国家が成り立ち、人口の圧倒的割合を占める農民を統治するのに適切な「官学」を説いた人にほかなりません。
そんな孔子の時代から1500余年、農業もガバナンスもはるかに進んだ中国「南宋」で朱熹(1130~1200)が生み出した「朱子学」 にも、明らかな利点があったはずです。
実際、李氏朝鮮や明によって国の学と定められ、以後数百年にわたってそれらの国の繁栄を支えた朱子学。
日本でも徳川幕府が官学として朱子学を称揚している。
いったいその利点は何なのか?
専門的にはいろいろあると思いますが、團藤先生の考え方に従うとき「文書主義」が有効だったと思われます。
■文書主義の適否様々
いま仮に、ある架空の王国に法律も何もなかったとしましょう。
権力者はその時々の思いつきで統治し、一貫性もなければ整合性もない。
税金は思いつきで取り立てられ、犯罪があっても捜査は一貫せず、同じ罪を犯してもある人は重く罰せられ別の人は賞賛されて褒美を与えられる・・・。
そんなアンフェアな政治がまかり通れば、民衆の不満がたまり、やがて爆発して紛争が勃発するでしょう。
そういう「時代」が日本にも確かにありました。
大きく言えば飛鳥時代以前の日本には、成文法と言えるものは実質的に存在していなかった。
聖徳太子の「十七条憲法」が有名ですが、これは公務員の精神訓を列挙したような内容です。
それでも、まだ、文章として記録されていれば、その時々の思いつきで勝手に捻じ曲げられたりするリスクは低いはず。
当時の日本にはそれ以外に「法」と言える文書はほぼ存在しなかった。
掟のようなものは言い伝えとして残っていたかもしれません。
しかし正確に記録されていなければ、細かな整合性など取れるわけがない。
そもそも文字というものが当時の日本にはなかった。
人類の文化はみな、初めはそういう原始状態からスタートしたはずです。
話を東アジアに限ると、この状態を大きく打ち破ったのが「律令制」の導入だったと言えます。
つまり成文法によるシステマティックな統治の導入です。
いわゆる「大化の改新」から半世紀余、大海人皇子系の子孫たちは中国風の大規模な都を奈良に建設します。
「平城京」。
ここで初めて日本に本格的に導入されたのが「律令制」(大宝律令)でした。
中国の隋唐帝国の制度を模倣したものですが、これらの導入は孔子が生きた時代から1000年も経過した後であることに注意すべきでしょう。
あえて乱暴に言うなら
「朱子学」とは「律令国家」で文書主義を重視すべく改革された儒学で、
だからこそ官学として適切だった。
そしてその社会を支えるのは第1次産業、灌漑農法による米生産と、それに従事する圧倒的多数の農民を統治する、はっきり書いてしまえば「弥生時代以来」とも言える循環型社会を保守する訓古学として成功した「モデル」と言えます。
日本でも戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康が、長く太平の世、つまり循環的で乱高下には乏しい、しかし農業生産には適した治世を保つべく朱子学を官学に指定し、江戸幕府は260余年の命脈を保つことができた。
これに対して
東アジア社会で「実体が変化するときは、規範もまた動く」として革命を支持する学となったのが陽明学(「王学」)
であったと考えましょう、というのが「陽明学モデル」にほかなりません。
太平の世であれば、朱子学に基づく循環的=停滞的な封建農村支配が順調に回転することで「繁栄」が約束されます。
しかし乱世にはそうした理法は通用しません。
ここで「乱世」とは、単に戦国時代だけを指すのではありません。
イノベーションを念頭に置けば、私たち生きている現代の毎日、時々刻々がR&D(リサーチ&デベロップメント;研究開発)の乱世そのものであって、そこで生き馬の目を抜くリサーチ・ウオーズに勝ち残っていくには、文書主義程度まで進化した弥生時代崇拝という「朱子学モデル」、つまり伝統思考の停滞型意思決定、権威尊重で前例墨守の思考体制は、圧倒的に不利だ、ということを言っているのです。
実際いくつかの国では、こうした「前例重視の権威主義」や「停滞型意思決定」によって国の方針、特に学術研究政策の方向が決定されている懸念があります。
例えば「党是」というのも「前例」の一種であり「権威」として知の停滞に直結します。
それくらい、良い意味で突き放したドライな観点から、物事を見ていく必要性がある。
そして社会が動くなら、法も動くのが当然であるし、判例もまた同様である、
判例もまた動くものである・・・というのが、團藤先生がお考えになった「動態としての法」の考え方にほかなりません。
戦後すぐに作られた刑事訴訟法の条文が時代に合わなければ書き改めればよい、というのは小さいようですが「革命」です。
また同じ法の条文によりながら、時代が変化した結果、判例が墨守でなく「動く」ことがあっても当然である。
團藤先生はこうした考え方を「主体性理論」としてまとめておられますが、その根幹となるのは「心即理」として社会の実態と合理的に即応した法文化の考え方にほかなりません。
そして、これと同じことが文系理系を問わず、明治維新の時期を挟んで日本の知において徹底的に血肉化が図られた、その意味を捉え直すための「陽明学」であり「主体性理論」であり、「動く判例」である・・・そういうことを強くおっしゃっていました。
■民主主義とイノベーション:判例を「動かす」少数意見
このような團藤先生の思想を、まさに「知行合一」で具現化したのは、最高裁判事として書かれた「少数意見」でした。
ご存知のように「最高裁判例」は法と同等の重みを持って社会に規範を与えます。
立法府によらない、司法府が法の運用に当たって随時与えていく「社会の基本ルール」が最高裁判例にほかなりません。
しかし、この「判例」が悪しき「前例」となって、いつか社会背景が変わってしまい、時代に法が適合しなくなっても墨守される「朱子学的な足かせ」にならないための、民主主義の大切な仕かけ」が「少数意見」である、と團藤先生は幾度も強調されました。
朱子学タイプの発想は、下手をすれば容易に、弥生時代の原始人を理想化する奈良・平安朝の古代文書主義にまで退行してしまいます。
そんな「前例重視」「先例墨守」の考え方で、DNA鑑定だ何だと先端の科学や技術で社会の価値観はめまぐるしく変転する、現代の法文化が構成できるわけがない。だから「革命」の思想が必要だというわけです。
実際に細かく拝読はしていませんが、参加されたあらゆる最高裁の審理と判決で、特に少数意見をこそ大切に、1つの例外もなく丁寧に書き続けてきた、とのことです。
少数意見とは、最高裁判決で判事多数の合意を得られなかったマイノリティの見解にほかなりません。
これを「無」にしてしまうなら、多数派の意見で少数を圧殺してしまうわけで「全体主義」になってしまう。
「全体主義」の硬直した法制度がどんな困った事態を生み出してきたか・・・。
第2次世界大戦前に東京帝国大学法学部助教授に就任され、若くして旧刑事訴訟法のシステム化で大きな仕事をされた團藤先生は、法の柔軟性が大事と強調されます。
文献として遺され、未来を拘束する規範としての「最高裁判例」。
それが固定的で停滞したくびきとして日本を縛るのでなく、時代に即して動的に変化するチャンスを与えるもの。
それこそが「少数意見」である。
そこからあらゆる変革、革命が生まれる余地が出てくる、これこそが、戦後の新憲法体制下で日本がGHQと対峙して一歩も引かなかった「陽明学」の精神の骨法である・・・。
こうした趣旨のことを「反骨のコツ」を上梓した後の團藤先生は、口癖のように繰り返しておられました。
「陽明学に基づく自伝」を書く・・・最晩年の團藤先生はしばしばそうおっしゃり、担当編集者など、この言葉を耳にした人は少なくないと思います。
「口述筆記でも何でもお手伝いしますから」と幾度も申し上げましたが「もう少し山田方谷を読み直してから」とおっしゃいつつ、今記したような趣旨のお話を何度も伺い、結局まとまった原稿としてお遺しになることはありませんでした。
しかし「社会が動く」以上、停滞的な封建農奴支配に適した「朱子学」型権威主義と前例墨守の文書主義は常に疑われねばならない、
それが陽明学の発想であり、科学を含むあらゆる知の「革命」に必須不可欠な骨法
と、先生は強くおっしゃり続けました。
その極みと言うべき一言を「裁判員制度」が成立した直後、團藤先生は口にされました。
「ついに『精密司法』と呼ばれた、團藤先生の刑訴法の枠組みが変わってしまいましたね・・・」
と申し上げると、
「いいんです。
僕が書いたものなど、全部消してしまってかまわない。
時代が変わったのであれば、法は全部改めればいい。
ゼロから作り直して、それで良いものにしていけばよい。
あの時もそうだったんだから・・・」
あのとき、つまり占領軍と厳しい談判を繰り返しながら、戦後刑法の枠組みをゼロから作ったときと同じように、またゼロから「革命」していくことこそ必要なのだ・・・。
よくあるケースでは、自分の作った小さな業績などに拘泥してじたばたするのが人間というものでしょう。
とんでもない、実に清廉潔白、90代半ばの團藤先生はハイティーンの目をしておられました。
そして「それにしても維新の志士は恰好いいね」と笑われた。
何という潔い「陽明学」の徹底か・・・これが本物の器の大きさというものかと、心のの震えを覚えました。
』
『
JB Press 2015.11.13(金) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45210
中国・韓国と同じ罠にはまった日本人にはご用心!
中韓にノーベル賞が取れない理由~他山の石とすべし
確かに日本は現在まで、数多くのノーベル賞受賞でも分かるとおり、東アジアにおいて抜群の創造的知性を発揮して、近隣諸国を圧倒してきました。
しかし、それには理由があったわけだし、隣国がいつまで経っても個人が創造性を発揮できる社会体制を構築できないのにも、構造的な背景があるわけです。
そう考えると、決して中国や韓国の現状を対岸の火事と笑って見ていられない現実が分かるはずだと思います。
東アジア諸国が基礎科学で十分な成果を出すことができない大きな理由は拙劣な学術行政にあります。
■対岸の火事と思う人は危険
教育や研究の指導が根本的な限界を持っている。
だから成果が出ない。
業績を挙げにくい。
同じ研究者が海外に転出すれば、米国や欧州で豊かな業績を挙げることができる。
1957年に中国人としてはじめてノーベル物理学賞を得た楊振寧教授や李政道教授などは、シカゴ大学という場、エンリコ・フェルミやスブラマニアン・チャンドラセカールのような優れた師友を得て 、豊かな才能を一気に開花させました。
つまり教育や研究の指導が大事なのです。
逆に言えば、教育や研究の指導を誤れば、現在の中国や韓国が陥っている状況は決して日本にとって他人事でないのです。
すぐに二の舞を踏んでも、何の不思議もありません。
なんて一般論で言っても、ちょっと分かりにくいですし、実は同様の過ちを、私たちも日常生活で容易に犯してしまう危険が高い。
今回はそういう観点で物事を考えて見ましょう。
中国がダメで日本はイイ、のではありません。
いま中国や韓国が陥っているのと同じ「ダメ」を重ねると、日本でも同様か、それよりも酷い状態だって、容易に起きかねない。
「対岸の火事」と安心して見る人があれば、その人が一番、ハイリスク・グループに属している危険性が高いと思います。
「人の振り見て我が振り直せ」という視点で、いくつか具体的に考えてみましょう。
■身近によく見る「朱子学」タイプ
古代国家、特に農業国の統治では、灌漑農法など「この方法に従っていれば外れない」というルーチンがあり、その伝統が重んじられ、古くからの聖典が崇められ、新たな試みや実験は軽んじられ、権威がまかり通り、少数意見は無視されました。
しかし「ルーチン前提の農業社会」と言っても、天変地異など不測の事態はいつでも発生します。
地震、雷、火事、洪水、疫病、竜巻、土砂崩れ・・・。
自然災害から伝染病まで、様々に「予測がつかず」「目に見えない」災厄は、すべて「神」の怒りと解釈され、「占い」が実施されて、政治はそれによって大きく左右されました。
典型的な古代の神聖政治です。
鹿の骨などを焼いたり、竹の棒をごちゃごちゃやったり、まあ、することはいろいろですが、要するに確率的な結果が導かれ、そこから何らかの御託宣・・・「神託」が突然降ってくる。
そういうご託宣の一種として「改革開放」とか「大躍進」「批林批孔」とか(みな20世紀の中華人民共和国で出されたものですが)、さまざまなスローガンが降ってくる。
それ以外は「聖典」の遵守。
「保守」は文書主義で一言一句にこだわり、内容への整合した理解はしばしば欠如、
翻って「革命」は突然の思いつきであっても「古来この海域は我が国固有の・・・」といった御託宣が降りて来、一度やって来るとやたらとそれを振り回し、ブームが去って「違う」となれば手のひらを返すように変節して恥じることがない・・・。
紙の上で生きている「朱子学タイプ」には、こういうことが珍しくありません。
逆に「ファクト」に基づく「陽明学タイプ」は、こういう無節操なことは普通の神経ではできない。
だから自然と良心的な仕事となり、基礎科学で言えばノーベル賞に直結するような重要な成果、誠実な仕事の成果がコンスタントに生まれてくる。
逆に「朱子学タイプ」は紙一枚のことですから、話が変わればハイそれまでよ、で終わってしまう。
こういう「朱子学タイプ」対「陽明学タイプ」というコントラストから検討してみましょう。
前回も記した通り、
儒教というのは下手をすれば「弥生時代」崇拝のような教えですし、
それを奈良平安時代レベルの文書主義で固定化したのが「朱子学」タイプで、停滞期には適した考え方ですが、変化の時代には一種の思考の停止回路として機能してしまいます。
朱子学タイプの一大特徴は「実態を見ない前例遵守」と言えるでしょう。
仮に実験事実が明らかに資料と違っていても、まず「権威ある文献」が正しいと思い込む。
これ、現代の日本、ないし国際社会で考えるなら、本当に最悪と思います。
端的な例として放射能汚染とそれへのリアクションというケースで考えてみましょう。
■原発も放射能も「ファクト」を見よう
やや話が飛ぶようですが、私たち理学部で物理を学んだ者は、基本的に「人の言うこと」を信用しません。
自分で確かめて見て「ああ、そうなんだな」と初めて納得します。
3.11以降、福島のサポートで現地と往復した際には、いろいろなケースを目にしました。
「○○が××『らしい』」「△△が□□『だそうだ』」
こういう風聞の類を、私たちは基本一切信用しません。
むろん「きわめて危険と考えられる所」に丸腰で入って行くようなことはしませんが、実際に訪れる場所では、自分自身も線量計を携帯し、注意して正確に測定するよう心がけ、危険があれば回避するようにし、安全を確保しながら少しでも貢献するよう、努力しました。
こういうとき、原発推進側の人でも、反原発の人でも、データへのリテラシーがない人とはコミュニケーションが全く取れず、正直往生しました。
「あんなデータもある」「こんなデータもある」「かくかくしかじかだから安全だ/危険だ」
結論の最後の部分は、はっきり言ってほとんど無関係。
印刷してある、どこの誰がどうやって測ったかも分からず、しっかりした査読が行われたかも分からない「ペーパー」や「データ」など、理学の基礎教育を受けた人なら、最初から「疑ってかかり」真偽を確かめたうえでなければ、その結果に身を委ねるようなことは絶対にしません。
主張のいかんと無関係に(たとえば原発推進でも反対でも)目の前の現実をしっかり把握しようとせず、権威に寄り添う心情で判断、自分自身は一貫して思考停止したまま「専門家」と称する人の言うことを鵜呑みにする・・・。
これがまさに「朱子学タイプ」、もっと正確に言うなら「朱子学で統治されやすい古代農奴型」の思考と言うべきでしょう。
「データ」なり「ペーパー」なりを参照しているならまだマシで、風説、伝聞、メディアの垂れ流す情報で右往左往するとすれば「文書主義」の大宝律令以前と言うべきで、弥生人レベルの烏合の衆としか言いようがありません。
そして、大変残念なことですが、21世紀の日本人はケースによりこの「弥生人レベル」に容易に落ち込んでしまいます。
あの恥ずかしい「STAP細胞詐欺」の際の素っ頓狂なメディア報道や「くるくるぱあ」としか思えないコメントの数々は何と言うべきか?
科学以前の原始人相当、と言ってまず外れないでしょう。
■権威主義は自信喪失の裏返し
福島に関しては、私の物理学科時代の恩師、早野龍五先生など、早期から正確な測定装置を導入(しかも多額の自腹もお切りになって)され、実証的に安全を確保しながら(また、もし本当に危険となったらいつでも退避できるよう準備しながら)復興に貢献しておられる専門家がおられます。
早野先生には何のヒモもついていない。
早野さんは反粒子の実験物理学者で原子力との利害関係など一切なく、御用学者でも何でもない、サイエンスの王道で大きな業績をお持ちの公正中立な研究者ですし、またかつてガンに罹患され、それを克服された一個人としても、放射線と人間の関わりに真摯な思いをもって取り組んでおられます。
どこの誰がどう言ったとか「先王のたまわく、君子はどーぢゃらこーちゃら」と書いてあるのを「ははー」っと拝み奉るのは原始人に任せておくべきで、原子力とは無縁にしていただきたい。
実際に現場に装置を設置して常に「ファクト」を測定し続け、安全を確認し、また危険があればいち早く退避するという「致良知」を、千万オーダーからの私財も投じられ「知行合一」で実践されている早野先生の行動は、まさに今日的な観点での「陽明学」の実践と言うべきものだと思います。
早野先生や、先生が技術的なサポートもして、福島在住者の内部被爆を低レベルに抑えるよう、コンスタントに「ホールボディカウンター」でモニタし続けている南相馬総合病院の坪倉正治君など、私自身正確な測定の実際まで知る人々の努力に、典型的に目の前のものを 何も見ない権威主義型の蒙昧で、おかしないちゃもんがつけられるのを目にすることがあり、心が痛みます。
実のところ、21世紀の良心的な科学者や医師に、弥生人が土器を投げつけているようなもので、どちらにとっても不幸です。
現代の科学者だって弥生式土器を投げつけられれば怪我をしかねません。
大変な迷惑ですし、弥生レベルの装備では、放射能のリスクに対して様々な危険を避けられるわけがありません。
人は「危険だ」と言われると、「本当かな?」と心配になるものです。
「ガンの疑いがあります」と医者に言われれば、誰だって考えるでしょう。
原発などに関連して「危険だ」と指摘する文献を見つけると、その真偽も確かめずに鬼の首を取ったように喧伝する人を見かけますが、それがつまり「朱子学タイプ」権威妄信型の思考停止タイプであると、本人が気づいていないケースが非常に多い。
実は非常にしばしば、権威主義に走る人は自信がない。その裏返しで権威を盾に開き直ろうとする。
実際に測定して「ここまでは安全」と言っている人に「安全説論者」とレッテルを貼るような行動は、まさに裏返しの権威主義そのものです。
そういう状態に陥っている人はどこまでが本当に安全か危険か、実のところ分かっていません。
分からないまま叫ぶことだけに慣れている。
これはいけません。
末路は「狼が来た!」と叫び続けた少年と同じにならざるを得ない。
是々非々、可能である限り、一つひとつ「ファクト」を確認し、「権威ある聖典」などはおよそ鵜呑みにせず一言一句疑ってかかる。「方法的懐疑」の精神と思想が、今日の学術を作り上げています。
放射能に限らず、身近に危険が迫っているような場合には、常に目の前をしっかり見て判断・行動すべきでしょう。
■判断の根拠はどこにあるか?
少し前、何人かでレストランに入った時、店の人に食材の産地を尋ねる人がありました。
放射能汚染に過敏な人で、少しでも怪しいものは口にしたくない、という発想。
妊婦さんなどがそういう考え方になるのは、心情的には分かります。
でも、仮にウエイターなり板前さんが「これは群馬産」「これは茨城」と口頭で答えたとして、「それがどれくらい信用できるか?」と、私などは考えてしまいます。
ウエイターは別に嘘をつく必要はない。
でも「××産」と書かれているものが本当に「××産」かどうか、どうやって確かめられるのか?
そういう「産地」などではなく、危ないと思ったら実際に自分で本当に測って見ればいいではないか・・・そんなふうに私は思ってしまいます。
「風説」が広がる1つのケースかと思いました。
リハーサルが詰まるなどして時間がない時、私はしばしばコンビニのおにぎりを食べます。
で、コンビニのおにぎりは軒並み「福島産の米だ」から「やめておいた方がいい」と忠告してくれた人がありました。
心配してくれるのはありがたいことで、そこには感謝もしたいのですが、じゃあ福島の米ならいかんのか?
実際に出荷されているということは、少なくともチェックに引っかかるような放射線量など出ているわけがなく、ファクトを見ずに風説だけで除外するようなことは、どうなのだろう・・・と正直私は思います。
少なくとも私は、明日以降も普通に、必要があればコンビニのおにぎりを食べるだろうし、(あまり健康に良いものではないかもしれないけれど)陰謀説めいて忌避するようなものでは全くないと思います。
他人から伝聞で聞いた食材の産地を、確かめもせず鵜呑みにして風評被害を拡大させるような行動、これも典型的に「朱子学タイプ」と思います。
実際に自分の目で確かめ、確信をもって危険だと判断すれば、決して食べない、で当然と思いますし、調べたつもりにもならない、根拠の存在しない風説で判断を右左すれば、確かなものは何も出てこない。
「朱子学タイプ」が否生産的になる道理です。
実のところ先入観、それと紙の上の知識、そして何より「ファクト」を見ない。
何となく人の言うことを前提に判断を下していて、でもその「人」の言葉がどれくらい信用できるか、などは考えていない・・・。
物理学科で最初に「これはしてはいけない」と教わる種のことが幾つか含まれている。
これでは、守れる安全も守れなくなってしまいかねません。
大事を取って危険は大きく回避した方がいい・・・もちろんそういう局面があります。
そういう時、何をもって「大事を取る」か、その根拠は「知行合一」自分自身でしっかり確かめて、初めて確信をもって決断を下せるものになります。
そうでなく、人のうわさであっちチョロチョロこっちチョロチョロ、といった行動を取っていると、天変地異のような状況では典型的に烏合の衆で、大きな危険に巻き込まれる危険性が高いことが懸念されます。
正直心配です。
冷静沈着に行動する人は、落ち着けるだけの根拠をファクトに求める習慣を持っているものです。
山で道に迷い、方位磁針はないけれど、腕時計は持っていて太陽の位置はあっちだから、こちらに進めば間違いない・・・。
このような、時々刻々の判断と行動、そういうものを「知行合一」の陽明学タイプと言うべきで、「よく分からないから誰か分かる人に聞いて、その人の言う方に進もう」という意見があれば、ファクトの根拠を欠く朱子学タイプと呼んで外れないでしょう。
■ネット時代の個人リテラシー
こんなことを言うと「伊東さんは理科を勉強したからいいかもしれないけど、私たち一般ピープルには・・・」なんて言われることが、実のところ少なくありません。
でも、どうなのでしょう?
いま私がここで触れたような「理科」は大半が初歩的なものです。
分からなかったららネットで調べることもできる。
いい加減なブログなどでなく、学校や研究機関が出しているホームページであれば、そんなに外れた内容でないことが期待できるでしょう。
そういうものを「鵜呑み」にするのでなく、疑い確かめながら調べていく。
そういう「自ら調べ、自ら学ぶ」プロセスを、面倒くさがっているだけ、というケースが、実は大半なのではないでしょうか?
放射能汚染も同様です。
ある食品の含有放射線量を本当に調べようと思ったら、いくらでも方法はあるわけで「いちいちそんなのやってられっかよ」という思考停止、横着と無根拠の断定が、おかしな権威主義の迷信をのさばらせているのではないか?
STAP詐欺では、サイエンスの中身と無関係に「イメージ」であれこれ言う人がありました。
文書主義、朱子学以前の弥生人的先入観、そんなものでサイエンスが左右されるべきものではありません。
最近は様々な病気を早期に発見できるようになりました。
ネットも玉石混交ではありますが、難病などについては日本語のページでも正しい情報も十分整っている。
そういうものを、きちんと直視し「自ら調べ、自ら学ぶ」人と、そうでない人とに別れるように思います。
自分のことだからいいじゃないか、という意見も耳にしますが、本人が自暴自棄になったりすると、迷惑するのは家族です。
私の母も糖尿病でしたがきちんとした養生をせず、正直大いにケアにてこずらされました。
ファクトを直視し、そこできちんと考えるというのは、実は勇気がいることなのかもしれません。
でも、するとしないとで正反対の結果、成功と失敗の違いが出て不思議でありません。
叱らず、むしろ子供に学べ
もっと身近に考えてみましょう。
親として、子供に「勉強しなさい」と言ったりしませんか?
下手をすると簡単に「朱子学タイプ」中韓に研究腐敗を引き起こすのと同じ土壌を、自分の家の中に作っている危険性があります。
親が子供の勉強している内容を理解せず、分からないことについて「勉強しなさい」と言うのは、ファクトに即さないという意味で極めてマズい「朱子学タイプ」に直結します。
紙の上の勉強をペーパーテストで判別し、合ってる間違ってるで点だけつけて、次いってみよう!という悪循環、これはダメ人材を作る最悪教育法の一典型にほかなりません。
もちろん中学上級や高校生ともなれば、子供が学校で習ってくる内容を親が知らなかったり、理解できなかったりすることがあるでしょう。
そういう時、分からないことについて「親」として上位に立って「ああしろ、こうしろ」と言うと、中身のない朱子学官僚と変わらないことになってしまいます。
気の利いたお父さんお母さんには「一緒に勉強してみよう」とか、子供に「どういうことか教えてくれる?」と尋ねるケースがあるように思います。
ちなみに教師だった私の母はしばしば私に母を「教えさせ」ました。
頭ごなしに「勉強しろ」と言われたことは母の生涯で一度もありませんでしたが、母相手に教えねばならぬと準備せねばなりませんから、当然勉強することになります。
同じことを私は教授職として学生に訊ねます。
「あまり詳しくないんだけど、教えてくれないかな?」
「調べておくように」と上から言うより、よほど効果があります。
これは保障します。
逆のパターンを考えてみましょう。
子供が勉強している内容を一切知らず、ファクトに基づかずに「点数」とか「○○高校合格率80%」とか、鹿の骨を焼く占いみたいな、実際ほぼ無意味な数字だけ見て、子供にあれこれ文句を言ったり、酷い場合には叱ったりすることはないでしょうか?
こうなると、朱子学以前の「弥生人的」迷妄に陥っていると言わねばなりません。
中身を理解している指導者が、分かったうえで、共感をもって優しくケアして子供を伸ばす状況を考えましょう。
逆は明らかです。
中身を理解していない親が、何も分からないまま、感情的に子供を叱責すれば、萎縮して伸びなくなり、まともなことはせず点だけ取ろうとします。
例えばカンニングであれ、学位論文でのコピーぺーストであれ、ES細胞を使った実験詐欺であれ・・・。
これら「ファクト」と無関係な評価で子供を蹂躙するなら、柔軟な思考力を持った優れた若者が育ち、伸び伸びと活躍することはほとんど期待できないでしょう。
虐待そのものと言ってもいいかもしれない。ア
カデミック・ハラスメントです。
同じようなことは、いまの世の中にないでしょうか?
仕事の中身を理解していない上司が、何も分からないまま、感情的に部下を叱責すれば、萎縮して伸びなくなり、まともなことはせずただ成果だけ上げればよいと考えるようになりかねません。
例えば不正経理であれ粉飾決算であれコンクリート打ち込みのごまかしであれ・・・。
これら「ファクト」と無関係な評価で部下を蹂躙するなら、柔軟な思考力を持った優れた人材が育ち、伸び伸びと活躍することなどほとんど期待できないでしょう。
虐待そのものと言ってもいいかもしれない。
パワー・ハラスメントです。
そんな「弥生式土器」の水準で右往左往していては、日本だって実に簡単に、中国や韓国をどうこう言える立場や状況ではなくなってしまいます。
目の前を見据え、足元から考える。「陽明学」などと言うと「古臭い」と見もせずに馬鹿にする人もいるでしょう。
でも「知行合一」の教えはそれを教えているわけで、ファクトを見もせずバカにする人は、その時点で原始人と差がなくなっているのかもしれないのです。
』
『
JB Press 2015.11.16(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45273
日本は中国とは違う、
西欧に一目置かせた伊能忠敬
中韓にノーベル賞が取れない理由
~世界を驚かせた日英同盟
20世紀の日本は、非常に高い成果を上げる人材を多数輩出してきました。
いま日本人がノーベル賞を筆頭に、内外で高い評価を受けるのは、そうした過去に育てた人材による業績に対してであることを忘れてはいけません。
翻って若い人材はどうか、と考えると、STAP細胞詐欺を筆頭に、多数の「コピペ博士論文」が疑われたり、「ゆとり」世代の基礎学力不足が指摘されたり、と必ずしも目先の明るい話ばかりではありません。
この先、本当に創造的な人材を輩出し続けていくなら、21世紀、22世紀の日本の基礎科学、本質的な学術の未来は明るいものになるでしょう。
また、過去の遺産を食い潰すような教育、研究の指導行政に陥ってしまうなら、未来は暗いものになると言わざるを得ません。
では、本当に創造的な人材を育てるとは、いかなる教育であるか――。
伊能忠敬から榎本武揚、そして明治の「カウンターマジョリティ」へとつながる「日本を支えた知の系譜」の成功と失敗を検討して、明るい未来を目指す具体的な形、「ファクト」に基づく人材育成を考えてみたいと思います。
■典型的更新国型教育とは何か?
ここではまず反面教師から見ておきましょう。
世の中には、典型的な「後進国型の教育」というものがあります。
後進国とは、すでに先進国がある状況で「追いつけ、追い越せ」とシャカリキになっている国であり、そこでの研究教育の指導体制と考えることにしましょう。
特徴は、
精神的な余裕がないこと、
そして膨大な量の知識を表層的に問う、ペーパーテストのがり勉を強要すること
にあります。
管理教育と言ってもいいでしょう。
何の必然性があるのか、よく分からない、断片的な情報を膨大に紙の上の知識として詰め込み、その合否だけを浅く問う詰め込み教育。
中国、韓国に限らず、途上国で「エリート選抜」と言うと、この種のペーパーテストと、それによる選別で社会的な地位や収入などが分かれてしまう学歴社会。
家族総出で子供のテストのカンニングを支援するような事態がいくつかの発展途上国で見られ、そうした報道を目にすることがありますが、この種の情けない事態が笑えないのは、子供の「その先の人生」が、そんな程度のことで左右されてしまうからにほかなりません。
つまり、社会体制として拙劣なのです。
こういう制度で育てられ、浅い紙の上の知識でその場を誤魔化しただけなのに「人生の成功体験」と勘違いした人は、生涯の不幸を背負いかねません。
と言うのは、断片的ペーパーテスト主体の教育で育った人には、応用力が欠ける場合が多いからです。
一問一答で、すでに正解があるような質問には、とくとくとして答えます。
この種の「人材」は「物知り」ではある。
しかし、ほんのちょっとでも状況が変わると、こういう教育では応用が利かない人が少なくない。
端的に言えば、過去問が存在しないと答えが出せない。
「チャート式」で正解をあらかじめ教えてもらっていないと、何も答えが導けない。
前例がないと判断業務を遂行できない。
先例があればそれをなぞることでどうにか仕事を回していく・・・。
こんなふうに書くと、だんだん実態が分かってくるかと思います。
これは単に歴史の現実に過ぎませんが
「典型的な後進国的教育」を率先して進めていたのは、実は明治以降の日本が筆頭
といって過言ではないのです。
「富国強兵」「殖産興業」――。
近代日本が掲げたスローガンと、その元で薩長閥政府が推進した教育制度は、典型的な「ダメ人材育成」の制度でした。
中国、韓国をはじめとする東アジア諸国は、何だかんだと言いながら日本を徹底して模倣します。
例えば韓国の半導体産業にどのようなオリジナリティがあるか、どれくらい日本から丸々コピーしているか、といったことを考えてみると、実態は明らかと思います。
日本のある種の人々が振り回す「ヘイト」中韓への嫌悪には、近親憎悪の面があるように思われてなりません。
「元祖詰め込み教育」は日本にその根の1つがあります。
そしてこの拙劣な教育は日本でも多大な負の遺産を作って来ました。
「ゆとり教育」にしても、元来はそこからの脱却、つまり余裕のない浅い紙一枚のがり勉を克服するために有馬朗人、寺脇研といった人々が導入したもので、その志は元来大変立派なものだったのです。
その結果がどうであったかは全く別ですが、本来の動機として教育を良くしようとして導入された改革であったことは間違いありません。
■「国策」から「天の理法」へ、伊能忠敬はなぜ測量したか?
明治新政府がそうそうに「学制」を導入したのは賢明な施策だったと思います。
すべての国民に等しく教育を施す、例えば文字の読めない人をなくし、民度の高い社会を作り出す基盤が整えられたのは、日本にとって幸運なことでありました。
しかし、たび重なる明治初期の政変で多くの有為の人材は政府を去り、民間で反骨の志を貫いて大きな成果を得ています。
少し前に記した北里柴三郎は典型的でしょう。
すでに熊本での少年時代、オランダの恩師から、世界トップ水準の教育を施された北里は「日本の夜明けは近いぞ!」と鞍馬天狗のおじちゃんに教えられた杉作少年(大仏次郎が幕末の志士活躍を描いた小説「鞍馬天狗」の描写ですが)のようなもので、本物の高い志を持った例外的存在、マイノリティだったわけです。
幕末期に西欧に送られ、最新学術を学んだ西周、中村正直、榎本武揚といった人材は、明治以降の政府で決してマジョリティではなかった。
榎本武揚(1836-1908)のケースは典型的でした。
彼の父、箱田良助(1790-1860)は備後の国の庄屋の次男で、武士ではありません。
千葉の九十九里で名主・造酒屋の家に生まれた伊能忠敬(1745-1818)のアシスタントとして、西欧由来の進んだ測量で日本地図を完成したのが箱田良助で、榎本はその息子にほかなりません。
伊能もまた、武士ではありませんでした。
今の千葉と茨城の県境、下総国佐原の造酒屋に婿養子で迎えられ、前半生はビジネスで成功した人物です。
当時の佐原は天領、つまり幕府直轄地で、水郷の商都で、武士はほとんどおらず、町人が合議して自治的に共同体を運営していた。
その佐原で名主として40代までを過ごした伊能は、50歳にして江戸に出「隠居仕事」として天体観測と暦を学び始めます。
が、ここで注意しておくべき要点があるのです。
伊能は紙の上の勉学だけでなく、毎日精密な天体観測を徹底して行ったという事実です。
18世紀末、江戸にはすでにティコ・ブラーヘとヨハネス・ケプラーの精密な天体観測がもたらされていました。
50歳を過ぎた伊能は、紛うことなくグローバルに先端的の精密科学に「隠居仕事」一切の営利と無関係なライフワークとして取り組みます。
江戸幕府の封建制が十分腐敗していた時代、そうした雑事を離れ、まさに「天の理法」に基づく宇宙の正しい秩序を「観測」、ファクトに基づいて知りたいと思った・・・ここに彼の「動機」が周囲の凡俗と隔絶していたポイントがあります。
伊能と、19歳年下ながら彼の師であった幕府天文方の高橋至時(1764-1804)は、正確な暦を作成するうえで地球の子午線の長さを正しく知りたいと思っていました。
純粋に科学的な興味であり動機です。
彼らは地球が球体であることを知っていました。
球体なのに人も水も「下」に落ちては行かない(実は中心に向かって落ち続けているわけですが)なんて不思議なことでしょう。
幕末の科学者たちは純然たる世界の不思議に胸を躍らせました。
50を過ぎて私財を投じ永遠の理法に夢を持つ伊能、そんな「弟子」を持って宇宙の不思議に純粋な疑問を持つ高橋至時。
■「地球というのは、本当はどれくらいの大きさを持つのだろう?」
それを知りたい、という動機を持った彼らに「蝦夷地にロシア人出没」という報が寄せられます。
ロマノフ朝ロシア帝国の特使ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきたというニュースです。
鎖国体制とはいえ、幕府は喫緊の事態に対策を立てねばならなくなりました。
通商であれ海防であれ、はたまた軍事であれ、基本となるのは「地図」です。
可能な限り正確な蝦夷地測量の必要性が生じました。
「これを利用しない手はない」と考えたのが高橋と伊能だったわけです。
彼らは必ずしも測量だけがしたかったわけではない。
蝦夷地と江戸という長い基線距離があれば、天体観測を通じて地球の大きさを知ることができます。
「子午線1度の距離を測りたい」というのが彼らの本当の願いでした。
子午線、つまり赤道と同じく地球全体の半径による「天体の大円」の大きさが分かれば、その表面の1点に過ぎない江戸や長崎、蝦夷地などでの天体観測結果から、さらに精緻な暦を得ることができます。
従来の経験的な数値はどれも信用するに値せず、高橋も伊能もこれが不満でした。
地球というものの果てしない全体像を知りたい・・・この、営利も政治もへったくれも関係のない純粋な情熱を胸に秘めながら、「ロシア船来航」という現実への対応策として、高橋は幕府に「蝦夷地測量」の計画を提出したのです。
やや難航したものの、許可が下り、伊能たちは北海道に向かうことができました。
若い時から数術が好きだった伊能忠敬は、このときすでに55歳になっていました。
■ダブルスタンダードが生んだ豊かな成果
55歳の伊能たち一行は、昼は測量をしながら海岸沿いを進み、夜は天体観測するという旅を続けます。
幕府が求めるのはあくまで「地図」という紙一枚のことですが、伊能にとってこの「地図」は平面ではありませんでした。
あくまで地球という不思議な球体の直径を知りたいという「別の目的」、宇宙への夢が彼に年齢を忘れさせたのだと思います。
役人は平面で地図ができればよいと思っていた。
伊能たちとは、最初から次元が違っていた。
ローカルな2次元思考の幕府を超えて、科学者たちは球面としての地球を考え、大宇宙を航行する天体の運動を、できるだけ離れた距離から正確に観測したいという「本当の動機」を持って、異常なほどの正確さをもって北海道を測量したわけです。
道路などおよそ整備されていない18世紀の蝦夷地のことです、歩けない海岸線は迂回せざるを得ませんでした。
大変な行程ながら、120日ほどで第1次測量はひとまず終了、全行程も半年程度で、江戸に戻って20日ほどの集中した作業で伊能版の蝦夷地詳細地図が作成されました。
この功績が認められて伊能は苗字帯刀を許されています。
武士の形になりますが、およそ幕藩体制の閉鎖的な思考とは無縁の新人類が、50代の青春を迎えていたわけです。
この蝦夷地測量で作成された地図は詳細を極め、平面思考とはいえ幕閣は驚嘆、海防の必要からさらなる測量の打診が高橋と伊能に寄せられます。
伊能たちはすでに思考がグローバルになっており、前回歩けなかった海岸線も踏破できる測量船を仕立てての精密測定を計画しますが、平面思考の幕府には通じません。
この計画は後に間宮林蔵によって実現されますが、間宮は伊能の弟子たちと政治的に鋭く対立し、のちの「シーボルト事件」が引き起こされてしまいます。
逆に本土の精密測定なら脈がある。
ならば、ということで、そうした政治の圧力も追い風に、伊能たちは三浦半島、房総半島、伊豆など江戸近郊の精密な地図を作成します。
そしてその間、毎晩毎晩、日本全国の至る所で伊能は天体観測を続けました。
高橋は幕府の「天文方」であり、測量に必要ということで、必ずしも面従背反ということではないにせよ、伊能測量隊は各地での天体観測に「本当の情熱」を燃やし続けます。
その結果「子午線1度」の値が「北海道ルート」のみならず「下田ルート」などからも求められ、値の比較が可能になりました。
実にまともなサイエンティストの思考です。
高橋はオランダ由来の資料に記された値と自分たちの得た複数のデータを比較、それらの一致を見て大いに喜んだと伝えられます。
が、そんな高橋至時は1804年40歳の若さで急逝、この年の秋、伊能版の東日本地図が完成し将軍家斉に報告、西日本の地図も作成せよ、ということになり、結局11年の歳月をかけて測量が行われました。
これらのデータをつなぎ合わせて1枚の地図を作るには、曲面を平面に投影する技術が必要ですが、伊能はメルカトル図法などの技法に通じていませんでした。
70を過ぎてもこうした新たな数術に情熱を燃やした伊能でしたが、結局1818年、73歳でこの世を去ります。
が、政治状況を考慮して伊能の死は伏せられ、3年後の1821年「大日本沿海輿地全図」(伊能図)と名づけられた「国家機密」の地図が完成します。
これをまとめ上げ、高橋至時の遺児、景保をサポートしたのが現在の広島、福山出身の箱田良助ら伊能の弟子たちで、箱田は4年後に幕臣榎本家の株を購入、旗本として幕府勘定方を務めます。
箱田は結局、幕末開国後の1860年、71歳で亡くなりました。
この箱田良助=榎本武規が46歳になって設けた「遅い子」が釜次郎こと榎本武楊で、父の没後、ちょうど「桜田門外の変」の直後の時期、米国留学が決定します。
しかし、米国では南北戦争が激化の最中であったことからオランダ留学に切り替えられ、ハーグで化学や国際法などを学ぶことになるわけです。
■世界が日本を高く評価した理由:
シーボルト事件から日英同盟まで
伊能の没後に完成した日本地図は日本の歴史を大きく動かしていきます。
国家の最高機密であったこの図のコピーが、完成からたった7年後の1828年、オランダ商館の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの荷物の中から見つかったのです。
高橋至時の遺児、幕府天文方の高橋景保(1785-1829)がこれを渡したものとされ、景保は捕らえられて獄死、背景には間宮林蔵との政治的確執などがあったとも伝えられます。
シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。
が、何だかんだ言いながら、優れた情報はコピーされ、外に出て行くものと相場が決まっているようです。
伊能図は1830年頃には欧州にもたらされ、その精度の高さは驚嘆をもって評価されます。
とりわけ伊能図を評価したのは英国海軍だったと伝えられます。
世界帝国の覇権政策の中、日本の科学技術は決して侮ることができない、という政策上の大きな判断が下されるに当たって、伊能図の持つグローバル最先端の技術水準は決定的な役割を演じました。
でも伊能自身にとっては、それは仕事の副産物に過ぎなかった。
本当に彼を突き動かしたのは
「地球って本当はどんな大きさなのだろう?」
「ケプラー法による天体観測の真の精度を極めたい」
という純粋な情熱だった。
その品位を「貴族の遊び」としてサイエンスを推進していた19世紀英国の知性は鋭く察知したのかもしれません。
「この相手は侮ると大変なことになるかもしれない」
英国は一方で1840年以降、アヘン戦争~アロー号事件~アロー戦争と、清朝と戦い、これを勢力化に置いていきます。
一方、日本に対しては1853年、米国大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーが来航、不平等条約が押し付けられはしますが、対中国のケースのような露骨な「植民地支配」という魔手はついぞ伸びることがなかった。
なぜなのでしょう?
19世紀最末年に至って、日本は欧州の代わりに清朝と戦ってこれを破るといった役回りを演じることとなり、日清戦争終結後、賠償金で八幡製鉄所を作り京都大学を作り、20世紀に入ると英国は数百年に及ぶ「光栄ある孤立」政策を放棄、日英同盟を結んで世界を驚かせます。
どうして極東のハラキリ部族と同盟など結ぶのか?
その背景にあるのは、決して幕閣の鎖国政策でもなければ、内乱を制した明治新政府の薩長閥の政策への評価などでもない。
伊能図が端的に示す、日本の知がグローバルに見て最先端を牽引するに足る可能性、ポテンシャルを持っていることが、非常に大きな意味を持ったのではないか?
実は私自身も英国国教会信徒の家に生まれて4代目にあたり、関連の話題で英国の大学と相談を始めたプロジェクトなどもあるのですが、伊能図が典型的に示すように18世紀の時点で日本はすでに、世界最先端をリードする科学の芽を十分育んでおり、それが適切に国際社会に共有されたことで、国を救った面が多々あると思うのです。
■果たして清朝時代の中国に「伊能図」があったか?
李氏朝鮮時代の韓国・北朝鮮に関孝和の和算はあったか?
関はニュートンやライプニッツより早く、全く独立に日本で微分法を編み出した数学者で「微分」という言葉も関の「発微算法」に由来するものと思われます。
こういった国情に国際法のオランダ、世界帝国の英国が通じており、日本は決して侮ることができない最先端の科学技術国たり得る存在と牽制されたことが、20世紀以降の日本の圧倒的な発展を準備する、大きな背景になっていたのではないか?
実は歴史を詳細に紐解けば、中国にも韓国にも伊能や関に当たる人物がいたのかもしれません。
でも不幸にしてそういう人たちの仕事は世界に共有されず、アロー戦争以降の中国はますます帝国主義列強の草刈場となり、19世紀後半の李氏朝鮮の国情も末期的で、結局清朝の崩壊と前後して日本の併合という憂き目に遭うことになってしまいます。
伊能も関孝和も、また明治以降の榎本も北里も、紀州藩の儒者の家に生まれた湯川秀樹博士にしても、およそ日本の政治的マジョリティではなかった。
封建制度の中で体制内の「勝ち組」として胡坐をかいた集団ではなく、地球の本当の大きさと宇宙の構造に夢をもって何千万歩という距離を「歩いて」測量し、天体観測し、そうやって得られた「ファクト」に基づいて人類史の知見を前に進めてきたマイノリティ。
少数の例外で、これら「カウンター・マジョリティ」が世界で最高の評価を受けることで、ここ200年来の日本が人後に落ちない国として、世界から一目置かれる存在であることを、許されてきたのではないか?
ですから、そういう「本物」ファクトに基づいて世界をリードする、少数かもしれないけれど明らかにグローバルなイニシアティブを取れる「カウンター・マジョリティ」の人材を育て続ける「本物教育」の灯を絶えさせないことが、何より重要だと思うのです。
』
【輝ける時のあと】
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