2015年10月6日火曜日

ノーベル賞(1):日本・カナダ、権力や体制に媚びる小さな精神から偉業は生まれない

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JB Press 2015.10.14(水) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44974

ロビー活動に喧しい中国・韓国にノーベル賞は取れない
第1回から受賞して当然だった日本は西洋の差別とも戦ってきた

 今年のノーベル自然科学3賞が出揃ったところで、感慨深く思われることがあります。
 それは非西欧人科学者の活躍の正当な評価です。

 こうした見方に焦点を当てた記事を内外でまだ目にしませんが、思うところを記してみましょう。

■非西欧人が5割の自然科学3賞

 初めにまず、今年のノーベル自然科学3賞の受賞者を振り返ってみます。

 医学生理学賞が、

ウイリアム・キャンベル(1930- アイルランドー米国)
大村智(1935- 日本)
屠ヨウヨウ(1930- 中華人民共和国)

 の3氏、この中では大村教授が最も若く、今後の活躍が正味で期待されていることが分かるでしょう。

 ここでは青色発光ダイオードのように日本の仕事というのでなく、国際的な業績評価で非西欧人が6割を占めていることに注目しておきましょう。

 化学賞は、日本ではひどい報道のされかたで「米国の大学教授ら3氏が受賞」という、ほとんど意味をなしていない、むしろ間違ったといった方がいい情報が出回り、頭痛とともにこれが現在の日本のマスコミの過不足ないレベルと再認識させられました。

トマス・リンダール(1938- スウェーデン)
ポール・モドリッチ(1946- 米国)
アジズ・サンジャル(1946- トルコー米国)

 の3氏がDNA修復の科学メカニズムの解明という業績で受賞しています。
 ガンとDNA修復の興味深い話題については回を改めましょう。

 ここでは、スウェーデンとして常に待望される「スウェーデン人ノーベル科学者」として、新たに70代(と言うのは若いということですが、その若手)のリンダール教授の名があり、今後はノーベル賞選考などの実務でも活躍と言うより働いてもらうことが期待されているように見えます。

 注目すべきはアジズ・サンジャル教授の受賞でしょう。
 業績はトップクラスのものですが、それとともに「シニア・サイエンティスト」として世界の科学研究・教育をリードする役割が彼には明らかに期待されています。

 イスラム国(IS)が席捲している地域と国境を接し、連日テロなどの報道もあるトルコの学術会議にも、サンジャル教授は名を連ねています。

 彼は2005年、トルコ人として始めて米国の科学アカデミー会員に選ばれ、この10年という間、先進諸国とトルコとを架橋して、高度な立場から人類社会のサイエンスを維持・発展するうえでも活躍してきた、折り紙つきの非西欧人シニア・サイエンティストです。

 まさにノーベル賞を受けるべき人としてここに名が挙がっているように見えます。

 サイエンスの業績報道に限界があるとしても、こういうことは広く社会に報じられてしかるべきこと。
 メディア各紙誌はぜひ、そういう部分にきちんと目を配るべきでしょう。
 島国根性があまりにも露骨で、今年の化学賞報道には率直驚かされました。

 さて、残る物理学賞が、

アーサー・マクドナルド(1943- カナダ)
梶田隆章(1959- 日本)

 の2氏に授与されたわけですが、これを(後に記す背景から)「西欧人・非西欧人」の割合として見ると、

医学生理学賞 非西欧人比率 66%
化学賞    非西欧人比率 33%
物理学賞   非西欧人比率 50%

*****************

3賞総計    非西欧人比率 50%

 という数字が出てきます。
 これがどのように画期的であるかは、第1回ノーベル医学生理学賞の授賞経緯を振り返ると歴然としたものになるでしょう。

■第1回ノーベル賞から世界最先端にいた日本

 私が学問芸術に関わる内容で「世界の先端を牽引する日本」といった内容を記すと、筋違いな「右傾化」といったコメントをくれる読者があります。

 ほとんどの場合、中身を読んでいないようで、タイトル(は編集部がつけてくれます)だけからの脊髄反射が多いですが、私自身を含め海外で日本人として仕事をする者は「日本人であるから」という理由で悔しい思いをしたことが必ず一度ならずあるものです。

 右傾化とかそんな寝言ではなく、学問芸術の世界でグローバルに蔓延する差別と、その偏見からの克服という観点で、こうした問題に私は明確な意見を持っています。
 最も典型的だったのは第1回ノーベル医学生理学賞でしょう。

 1900年、第1回ノーベル医学生理学賞はドイツの医学者エミール・フォン・ベーリング(1854-1917)の業績「ジフテリアの血清療法の確立」に対して与えられました。

 この仕事は、それに先立つ10年前、1890年にドイツの学術誌に2人の連名で投稿されたジフテリア・破傷風への画期的な療法の成果が評価されたものです。

 今年の大村さんたちの仕事も、流行性の難治疾患への画期的療法の確立が評価されたもので、典型的なノーベル賞業績と言えるでしょう。

 ジフテリアもフィラリアも国境を選びません。
 人間の引いた勝手な線を越えて蔓延する病気に対して、人類全体を救う新療法の確立はグローバル社会への大きな価値ある貢献と言わねばなりません。

 これは1900年の第1回ノーベル賞から一貫したテーマです。
 例えば第1回物理学賞のレントゲン博士の貢献は今現在も毎年日本国内のあらゆる健康診断で(胸のX線撮影などを通じて)生かされ続けている。

 第1回医学生理学賞も同様ですが、現在の「原典主義」最初の原著者を評価するノーベル賞の考え方からは、ベーリングの第1論文の共著者も、間違いなくノーベル医学生理学賞を受けていなければならないはずでした。

 その、ベーリングと同世代のもう1人「幻の第1回ノーベル医学生理学賞受賞者」は、日本人でした。


●北里柴三郎(1853-1930)

 大村さんが奉職されている北里大学の創設者である、幕末に熊本で生まれ、東京帝大医学部からベルリンに留学した日本人医学者こそ、第1回ノーベル医学生理学賞を受けるべき正当な候補者にほかなりません。

 が、彼は賞を受けることがなかった。
 理由は「アジア人はただのアシスタントに過ぎない」
という根拠のない断定が色濃く疑われています。
 だからこそ、今年のノーベル賞の非西欧人科学者5割は画期的と言わざるを得ないのです。

■人種差別と非対称性を超えて

 1885年、「くまもん」の正味の祖先と言うべき容貌の北里は32歳、反抗的で上から嫌われた東大医学部を飛び出してベルリンに留学、ロベルト・コッホ(1843-1910)の研究室で最先端の病理研究に取り組みます。

 20~30代の北里はコッホ研で目覚しい働きを見せます。
 破傷風菌の発見、単離と抗体の分離、それらによる「血清療法」という方法そのものの確立。
 あきらかに北里は一段上の仕事をベルリンで成し遂げています。

 コッホ研で学位論文のメンターとして北里に張りつけられていたのが1歳年下のベーリングで、1890年に共著で出版したのは、北里の血清療法の1つとして、ジフテリア菌に対するものを報告する論文でした。

 ベーリングはのちにジフテリアに関するデータだけを単著で発表しており、当時のストックホルムは「学位指導者のベーリングがアイデアの出元で、アジアから来た留学生は単なるアシスタント(昨今の表現を使うなら「ピペド」扱いとでも言うべきか)であろう」という、実態とかけ離れた断定でベーリング1人を受賞者に選んだ。

 共同受賞という考え方も第1回にはなかったのがさらに災いしたとも言えるでしょう。

 当時ジフテリアは発症すれば致死率5割という難治の流行疫で、確かにこの貢献は重要ですが、それ自体が北里とのコラボレーションですし、もっと言えばその方法自体のオリジナリティは北里にある仕事です。

 で、その1応用例の方だけを「第1回ノーベル医学生理学賞」は授賞業績として評価した。
 理由は簡単です。

 いまだ天のものとも地のものとも判然としない、創設したばかりの新しい賞である「ノーベル・プライズ」のブランドを確立するうえで、先進諸国の認知と納得を得るには、実業家としても成功しつつあったベーリングにスポットライトを当て、さっさと帰国して祖国日本の疫学に尽力していた北里など取り上げても欧州先進国へのPR効果はゼロ、つまるところ
 「ノーベル賞にアジア人は、まだ早い」
と判断されたからと言えるものでした。

 1900年時点の先進国=宗主国と後進国側=殖民地側には、人材評価のうえであからさまな非対称性が存在していた。
 詳しいことは7年前の新書「日本にノーベル賞が来る理由」に記しましたので、ご興味の方はそちらもご参照下さい。

 北里は残りの生涯で結局ノーベル賞を受けることがありませんでした。
 が、ノーベル賞程度のもので評価され得ない、不撓の科学業績で人類にはっきり貢献している。

 今回の大村さんへの授賞は、その分の「ノーベル賞からの謝罪」と言える面があるかもしれません。
 大村さんの受賞講演やそれに至るセレモニーでは100%「北里柴三郎」の名が挙げられることになるだろうと見ています。
 トップエンドのサイエンスに関わる最低限のマナーと言わねばならないでしょう。

■賞は始まり・・・「欲しい人」には来ない

 先ほど、今年のノーベル自然科学3賞の受賞者全員を概観しましたが、梶田さんがただ1人、50代であることに気づかれたかもしれません。

 「若い受賞者」に、受賞後の活躍を期待するというのは、全くかけ値のない現実で、梶田さんにも、また「まだ80歳で3氏のなかで最も若い」大村さんにも「今後の活躍」が本当に大いに期待されているのです。

 もう1つ、本当に感慨深く思うのは中国からの受賞者、女性で、博士号を持たず、研究組織のヒエラルキーの中では置き去られたような存在だった屠ヨウヨウ氏の受賞です。

 こういうことであるべき、なのです。
 ベーリングの単独受賞とし、北里の名を消さざるを得なかったようなノーベル賞ではなく、ロビー活動その他と無縁に、本当に本物のパイオニアを評価する、人類の科学の良心として、独立不羈の筋を通してもらいたい。

 2008年に日経ビジネスオンラインにノーベル賞のコラムを書き、授賞式前に新書「日本にノーベル賞が来る理由」を公刊してから、この季節、ノーベル賞に関連する取材などをもらうようになりましたが、今年はすべて完全に断りました。

 と言うか、この原稿もアムステルダム・スキポール空港で執筆しており、テレビ局に出向けないこともあります。

 はっきり書きますが、日本のマスコミのレベルは低すぎます。
 正確に言えば、報道機関に専従で雇用されている人材の科学や技術への理解が限りなくゼロに近い。
 「そういう読者・視聴者に歓迎される記事を書くのだから、それでよい」
といった開き直りすら感じることがあります。

 また私は一音楽家に過ぎず、個人の良心において、あらゆる背景圧力無関係にサイエンスについて発言はしますが、その手の評論屋ではありません。

 関連する内外のあらゆる依頼を断るようになりましたが、かつて2回、韓国の主催者から大学に問い合わせがあり、ソウルに招聘されて
 「なぜ日本にばかりノーベル賞が来て、韓国には来ないのか?」
というタイトルで講演したことがあります。

 そこでの話は簡単な結論で
 「賞は目的にしても絶対に来ない。
 そんなものがなくても科学の王道でその先をリードできる人にノーベル賞などは来る。
 そこまでの器量あるサイエンスの土壌を育むことが第一」
と繰り返すのですが、ソウルでそれが納得されたという手ごたえは全く持つことができませんでした。

 中国も韓国も、ノーベル賞についてはロビー活動を相当展開していますが、今回の中国以前に自然分野での受賞はありませんでした。
 また(これは裏を取ってみないと分かりませんが、察する限り)今回の受賞は当局の活動とはかなりかけ離れた人材が選ばれているように思われます。
 もちろん中国人にも韓国人にも本当の意味で優れた、歴史的な貢献のある科学者は多数おられます。

 私が存じ上げる中では、楊振寧先生(1957年物理学賞。最初の中国人受賞、ただし米国籍)やスティーヴン・チューさん(1997年物理学賞。米国オバマ政権エネルギー長官として福島第一原発事故後の収拾にも尽力)など、受賞は人生の一里塚で、その前も後も変わることなく、すさまじく精力的に価値ある仕事を続けておられる。

 そういう人に「ノーベル賞」サイドとしてむしろ「仲間に加わってもらいたい」というのが、実のところ人材が豊富とは言えないノーベル賞選考側の、隠れた本音でもあると認識しています。

■見識のある本物の科学者はないものか?!

 そういう正味のニーズに沿って、中国13.5億人を見渡したとき、並み居る「××大学総長」「○○研究所長△△博士」などマッチョな何百万人を尻目に、
 マラリアの特効薬を開発した女性で博士号を持たない「本物中の本物」屠さんが評価されたことに、中国当局や韓国の関係者なども含め、一定冷静に検討してみることを勧めたいと思います。

 日本はすでに1900年の時点で世界最先端の科学フロンティアをベルリンで開拓し、国内にもその分枝を育てていた。
 北里がベルリンで仕事したのはたった6年間、明治18年に飛んで24年には帰国し、1900年時点では日本国内に伝染病研究所などベルリンにひけを取らない世界最先端の研究施設を構えていました。

維新からたった33年、
 日本は幕藩体制から、ほぼ瞬時にして世界の科学をリードする先進国へと脱皮し
 1902年には日英同盟が結ばれます。

 ちなみに私は明日、ロンドンで第2次世界大戦の日英和平70年の会合に出席する予定ですが、こうした機を見るに敏な英国の慧眼恐るべしと思います。

 経済学者のアマルティア・センさんは21世紀の今日でも途上国の発展モデルとして日本のケースを凌駕するものはない、として公正な社会成長を考えておられ、私たちもいくつかこれにご一緒しています。

維新の内戦動乱が本当に収まるのは西南戦争終結の1877年、
 北里のベルリン留学はそれからたった8年後、
 帰国して研究所設立は14年後、
 本当に本物を育てれば、そんなスパンで物事は進みます。

誰の仕事を見ても、画期的な進捗は数年で物事が進む。
 21世紀に入ってすでに15年、
 この間日本はどういう基礎科学を育ててきたか?

 韓国はどうだったか?
 中国は?
 実は私が大学に研究室を構えたのも1999年ですので、同じ時間をその観点で過ごして来ました。

 私たちのラボラトリーも私たちなりに15年仕事を積み重ねて来ましたが、科研などで出してきた成果を振り返ってもやはり「3~5年が勝負」は同じことだったと思います。

 10年あれば本物の種は根づき、芽が出て青葉が茂ります。
 15年あれば花が咲く。
 そういう科学を育てるべきだし、ノーベル賞を超えて学問芸術のすべてを貫く哲理として、肝に銘じるべきだと思います。

 21世紀のグローバルな科学は、そういう「偏見を超えた世界市民」の人材がリードしていく。
 これは間違いありません。



JB Press 2015.10.19(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45026

中韓を圧倒する日本のノーベル賞は反骨に秘密あり
権力や体制に媚びる小さな精神から偉業は生まれない

日本にばかりノーベル賞が来て、どうして中国や韓国に来ないのか・・・?

 しばらく前に「ノーベル賞本」を書いて以降、そういう問い合わせを(面白いもので)海外から受けるようになり、ソウルには2度、この種の講演で赴いたことがあります。
 酒宴では「ぜひ先生の本を韓国語で」と毎回言われるのですが、それが出たためしがない。
  そういうことが続くと、まあこちらもそういうものか、と分別して話を聞くようになりますが・・・。

 前回「ロビー活動に喧しい中国・韓国にノーベル賞は取れない」でも書いたとおり、率直に、中国にも韓国にも「ロビー」重視、実績の本質を見ない一定の悪弊があると思います。

 では、日本にはそういう悪弊はないのか・・・?

 と問われれば、いえいえ、残念ながら日本もしっかり、東アジア大中華文化圏の一員らしく、そういう悪弊は残っています。
 入試や就職はコネがものを言うだろうという思い込み、上の人に取り入れば何とかなるだろうという算盤勘定・・・情けないことですが、21世紀の日本にだって、そういうことはまかり通っているでしょう。

 しばらく前に、ある方面から「情実入社」的な依頼を受けてびっくりしたことがあります。
 「東大教授なんだから、それくらいのことできるでしょう?」
と真顔で言われ、こちらも真顔で
 「何をおっしゃってるんですか?」
と即座にすべてお断りさせていただきましたが、今でもどこかの本音に、そういうコネべったりみたいなことで、物事を誤魔化していく流儀が残存している。

 これがまかり通っている限り、
 「中国も韓国もノーベル賞に代表される国際的な知の明るみでイニシアティブは難しいのではないですか?」
というお話ですが、実はこれ、日本も同様の面がハッキリあります。

 では、どうして日本は1900年時点で世界最高のサイエンスの牽引力にまで成長できたのか?
 維新からたった30年強、
 実質的には10~15年で最先端に躍り出ることができたのか?

 その背景には「負け組」の青空があった、と私は考えています。

■健全なカウンター・インテリジェンスが世界の水準を支える

 例えば北里柴三郎博士を考えてみましょう。
 彼は肥後、熊本は阿蘇、小国町というところの生まれです。
 実家は庄屋、お母さんは隣接する豊後森藩士の娘で江戸育ちの侍気質、1853年と言えばペリーが浦賀に来航した年に熊本で生まれた、100%江戸時代産である北里が、第1回ノーベル医学生理学賞の正統なる受賞者たり得たのは、いったいなぜなのでしょう?

 1つ思ったのは土地柄です。
 北里の母「てい」さん(1829-97)が生まれた森藩は天領の日田に隣接、日田は広瀬淡窓が開いた「咸宜園」が19世紀初頭から進んだ洋学を教えていた風土です。

 また育ったのは江戸、いずれにしても開明的な土地柄で育ち、非常に活発な性質だったと伝えられ、それがのちのち「ドンネル先生」(カミナリ親父)と呼ばれることになる北里に気風として遺伝していたと伝えられます。

 単なる精神主義というのではなく、方法を伴った徹底した「肥後もっこす」。
 後年の北里の徹底振りを見ると、それを感じないわけにはいきません。

 彼のどういう背景がそうさせたのか分かりませんが、19歳で熊本医学校に遊学してオランダ語の学習に熱心だったのを、師であるコンスタント・ファン・マンスフェルトに認められます。
 内弟子のような形で語学を教わり、2年目には早くも通訳助手として指導側の立場から教育に携わり、値引きのない本物の臨床・研究・教育のたたき上げとして熊本医学校を修了。

 23歳で東京医学校(現在の東京大学医学部)に進みますが、オランダの先進医学の基礎と臨床をハイティーンから叩き込まれた「マンスフェルト流」の北里には、東京くんだりで日本人教授が停滞していた研究未満の部分を見るに見かねたのでしょう。

 また母親譲りの勝気な性格もあって、そういうところで絶対に引かない。
 結果、彼は幾度も留年させられ、卒業には8年を要し、ようやく30歳にして医学士となります。
 仕事は徹底してするけれど、一言居士であることも間違いのない北里にとって日本は狭すぎたのでしょう。

 その後も、脚気細菌由来説など誤った学説に拘泥する東京大学医学部の後進性を徹底批判、北里は常にグローバルスタンダードをリードする側に立ち、決して日本国内、東大の中だけで通用するゼゲンか陰謀公家みたいな女々しい連中と一線を画し続けました。

 侠ですね。人間はこうでなくては・・・。

 1885年、北里はドイツ留学しますが、コッホ教授以下のベルリン・チームが目にしたのは「極東の後進国からやって来たおどおどした優等生型留学生」ではなく、ハイティーン時代からオランダ流の先端医学の手技を身につけた、きわめてプラクティカルでやる気に満ち満ちた、およそ侮りがたい32歳の青年医師だったわけです。

■「手が動く」ことの大切さ

 北里は短いベルリン時代に莫大な仕事を成し遂げますが、これらは彼が実験研究に極めて優れていたこと、端的に言えば「手が動く」ことが背景になっています。

「手が動く」ためには3つの背景が必要です。

1つは全体をきちんと理解していること。
2つには、四の五の言う前にきちんと仕事を実行できる力があること、
(3つには)そして完遂するまでやり遂げ、途中で投げ出したりしない意思の強さ、いわば頑固さ
です。

 この特徴は、北里の門下生とも言え、やはり早くに日本人としてノーベル医学生理学賞に名の挙がった野口英世(1876-1928)にしても同様で、ともかく凄まじい仕事ぶりだったらしい。
 実のところお金や女性関係など、正味めちゃくちゃな人生だった野口でした。

 それが後年「偉人」として、その人生の上澄みだけが子供にも模範として教えられ、紙幣に顔が出たりするようになるのは、ひとえに彼の尋常でない実験技術・・・を自ら改善改良しつつ、ブルドーザーのように成果を出しいく、一度始めたら誰にも止められない勢いにあったらしいことが伝えられています。

 もっとも野口の遊蕩ぶりも同様にすさまじく、一度始まると誰にも手がつけられなかったのは同じことだったらしいですが(苦笑)。

 閑話休題、北里は腹が据わり、同時に手が動いた。
 この「胆力と腕力」の具備があってこそ、維新の混乱から高々10数年で世界最高水準に100%の確度で到達することができた。
 その自信を背景に北里の後半生もまた、凄まじい反骨で一貫しています。

■「胆力」と「腕力」が支える独立不羈

 38歳の北里はベルリンから帰国早々、福沢諭吉の援助を受け民間の「伝染病研究所」を設立、そこでペスト菌を発見(1894)するなど、世界を牽引する仕事を展開します。

 1894年と言えば日清戦争の年で、英国などはこういうところを見て「日本はこれから伸びる」と投機の観点から「光栄ある孤立」政策を捨て1902年に日英同盟を結ぶわけです。

 これはこの時期に曽祖父が英国国教会に入信し、私自身も教団の運営する「聖路加病院」で生まれた個人として、長年いろいろなところから聞かされたことにほかなりません。

 北里は
 「疫学は公衆衛生行政と一体でなければ意味をなさない」
と考えていました。
 この背景には幼時に小国で、また熊本時習館でも短期間習ったであろう儒学の中で、陽明学の影響があるのではないかと思います。

 知行合一。
 幕末の洋学は陽明学が受け皿となって日本全国に広まった側面が存在します。

 「伝染病研究は行政と一体であるべし」
の考えから1899年北里は私設「伝染病研究所」を内務省に移管、国立施設としてこれを運営し、日露戦争から明治末期にかけて、日本の予防公衆衛生は大きく前進します。

 40代半ばから50代、脂の乗り切った北里は、単に日本のみならず世界の公衆衛生に大きな貢献を果たします。

 ところが時代が大正に移り、第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、北里に一言の相談もなく、内務省伝染病研究所が文部省に移され、東京大学に合併が決定すると、すでに61歳になっていたカミナリ親父、北里は猛然と職を辞し、私費を投じて「北里研究所」を作ります。

 大村智教授のノーベル賞は、この「反骨研究所」から生み出されたわけで、北里としては二重三重にうれしいことでしょう。

 伝染病の克服には研究所だけでは足りません。
 病院が必要です。
 で1915年、芝に済世会病院を設立、現在も日本全国にある済世会病院の中核として三田の「済世会中央病院」が臨床の最前線で活躍しているのは周知のとおりです。

 さらに全国で分裂していた医師の集団を、「そんなことでは時と場所を選ばない伝染病に対抗できん!」と一喝、したかどうかは分かりませんが、翌1916年「大日本医師会」として統一、その長としてこれを治めます。
 63歳、並大抵ではできません。

 研究所と病院ができたら、あと作らなければいけないのは・・・医者です。
 患者は作りたくなくてもやって来る。
 で、慶応義塾大学医学部を翌1917年に創設、医学部長として人材育成までめどをつけ、最初の10年を率い、1928年にきれいに引退、1930年77歳でこの世を去ります。

 北里は常にグローバル・スタンダードに対して誠実であろうとした。
 誰が見ても明らかなサイエンスを疑って疑って疑って確認し、確かめられた「ファクト」は徹底して利用した。

 宮仕えの中で、国内の目配せだけで降りてくるような予算やポストで右往左往する、女々しい官学の宦官根性とは当初から無縁だった。

 その1つの原点はマンスフェルトに学んだハイティーンの経験にあると思います。

 と同時に、藩閥政治が跋扈し、薩長にあらずんば官界の栄達ならず、といった露骨な差別が存在した明治の日本で、そんな国内事情などモノともしなかったことが重要でしょう。

 「俺は天下のグローバル・スタンダードに恥じない仕事だけする。
 それ以外に頭は下げん!」

 という独立不羈の気概と、それを支える腕力と体力・気力。
 近代日本を支えた知性の大半は、
 実は、侍で言えば旧幕臣や親藩、薩長ではなく土肥など割りを食った側にありました。

 また、そうした侍の都合と無関係に高等教育を受けることができた様々な出身の優秀な若い知性たちが担い手となりました。

 北里は熊本の庄屋の倅、彼を支えた福沢諭吉は大分中津藩から崩れた男。
 野口英世は福島の農家で囲炉裏に手を突っ込んで大やけどは周知の通りです。

 日本で実際に初めてノーベル賞を手にした湯川秀樹は、地質学者小川琢冶の息子ですが、小川家は紀伊徳川家で儒学を講じていた学究の家柄です。

時の権力が知を独占すると、まともな批判的知性は窒息してしまいます。
 ソ連で、北朝鮮で、あるいは今の中国で、どういカウンター・インテリジェンスが育ったか、あるいは潰されてきたか。
 ソルジェニーツィンでもサハロフでも、枚挙に暇がないでしょう。

明治の日本には「負け組」がいた。
 官界での栄達など絶対にできないと分かっている旧幕臣や反薩長の、しかし知性においては明らかに、その連中よりも優れた人々が、

「誰があんな者に頭を下げるか! 
 俺の上にはグローバルな青空が広がってるんだ!」

 と世界で猛烈に仕事して、たった5年でトップに躍り出た。
 日本のサイエンスが急速に伸びる初期そういうケースが非常に多いことは、注目に値すると思います。

 これはまた、利根川進さんの免疫グロブリンの仕事など、20世紀後半に至っても同じパターンが見られ、今後、世界各地の3A(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ)諸国でも、同様の展開が繰り返されるように思われます。

 小さなコップの嵐、人民なんちゃらの序列何位といったお山の大将で喜んでいるのでなく、本当に世界の土俵で相手に土をつける仕事をする、そういう喜びを教える教育であるべきでしょう。

 中国や韓国に北里の水準でグローバルに通用する見識の医学校がどれくらいあるか、正確には知らないのですが、少なくとも北里が彼の学校や慶応義塾で教えた「医道」は、そうした胆力と腕力を養成しようと考えたのだと思います。




JB Press 2015.10.27(火) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45079

おしっこで癌を発見:
日本が生んだノーベル賞級研究
中韓にノーベル賞が取れない理由
~九州大学の広津崇亮氏の卓見

 中国や北朝鮮から、現在まで、また今後も当分「ノーベル賞クラス」の抜本的な基本業績が生まれてこないのには理由があります。
 それは、あらかじめ「正解」とされるものにタガが嵌められており、「党の方針」や「首領様の考え」に一致しないものは、そもそも研究の対象から排除されてしまう可能性が高いから。

 しかし、これを日本人が他人事と言えないリスクも存在します。
 ペーパーテストの弊害です。
 つまり「党」や「首領様」に関係なくても、すでに存在する「正解とされるもの」あるいは「前例」「前任者がそうしているから」といった慣例の無批判な繰り返しに終始すれば、日本だって中国や北朝鮮の陥る弊害に、簡単に引っかかってしまうと思います。

 そこで、以下では私がごく最近目にして、たぶんこの先にノーベル賞につながる成果が出るだろうと見当をつけた業績を1つご紹介してみたいとおもいます。

■100円ガン検査:患者の尿に集まる線虫

 九州大学理学部の広津祟亮(助教)先生は、面白いことを考えました。
 「なぜ人は、花の香りとおならの臭いを、混同しないのだろう?」

 澁澤龍彦の小説「高丘親王航海記」には、美しい夢を食べたバクがピンク色のおならを発し、それが甘美な香りを漂わせるという話が出てきますが、現実の世界に生きる私たちは、決しておならと花の香りを混同しません。
 だから、トイレの芳香剤に花の香りのごときものが多いわけではないでしょうが・・・。

 生物は「香り」をどのように識別しているか、その研究の「モデル生物」としてCエレガンスという「線虫」が世界的によく使われています。
 広津先生は、人よりはるかに鋭敏な臭覚を持つ「線虫」を使って「花」と「おなら」を嗅ぎ分けさせてみよう、と思い立った・・・らしい。

 九州大学理学部とはご縁がありますが、残念ながら広津先生は存じ上げません。
 しかし業績やそれが持つ意味、科学的な広がりなどは、瞬時にして分かる部分があります。
 広津先生は「おなら」ではなく人間が発する別の「におい」に注目しました。
 ガン患者のおしっこの持つ特異臭です。
 ガンに限らず、特定の病気にかかると特徴的な体臭などがする場合があります。
 例えばパーキンソン病の患者には、それと分かる特有の体臭がある。

 臭いがあるということは「臭い物質」を発生しているということほかなりません。
 つまり病気の作用で生成される特定の物質が「におい」、それを私たちの鼻が感知するというわけです。
 大して鋭敏でもない人間の嗅覚でも捉えられる「特有のガン尿臭」。
 ましてヒトの何倍も優れた嗅覚を持つ線虫、Cエレガンスなら、何らかの反応をするに違いない・・・。
 丁寧に科学的に考えられた準備を持って「線虫によるガン尿の臭覚」研究がスタートします。
 それ以前に、様々な「におい」に対する線虫たちの挙動を、広津先生は細かく調べておられます(2014年)。

 シャーレの中に健常者の尿から採ったサンプルを入れても、線虫たちは全く興味を示しません。
 ところが、ガン患者の尿から採ったサンプルを入れてみると・・・。
 線虫たちはそこから「何か」の臭いを嗅ぎつけ、わらわらと集まって行くことが確認された。
 念のため、臭覚が利かないようにした線虫で実験してみると、そのような反応は起きなかった。

 2015年、今年の3月に発表された、この成果は、見る人が見れば明らかな、ノーベル賞クラスの業績一直線の、金の卵中の金の卵、本当にオリジナルな成果で、今後の展開が非常に楽しみな「日本のサイエンスの宝」の1つと思います。
 こういう成果を、権威でもへったくれでもなく、「党の方針」とも「首領様の偉大な指導」とも無関係に評価できる「健全なサイエンス」日本の科学力こそが、東アジアでは例外的と言わざるを得ない、高度な創造性をキープさせているのです。

■素朴なファクトから偉大な成果へ

 仮に中国共産党が全人代の決定として「花の香りとおならのにおいを識別する」科学を是認するだけの器量を持っているでしょうか?
 あるいは首領様が人民を指導するうえで「おしっこの臭い」に注目せよ、と国家に大号令をかけるだろうか?
 どちらかと言うと衆愚的なイメージを優先する、悪い意味で「かっこしい」これらの国々で、おならの臭いを長さ1ミリの虫に嗅がせる研究を進めるかと問われれば「疑問」としか答えようがありません。
 また党是などで「おならこそ研究すべき」などと「体臭大躍進」など決議しても、奇妙と言うより滑稽なことにとなるに違いありません。

 広津先生のこの研究は、明らかに勝算があると思います。
 と言うのは、
★.Cエレガンスという「線虫」は人類が手にしている数少ない「モデル生物」の1つで、
 すべてのDNAが解読され、
 すべての細胞が把握され、
 それらがどのように成長していくかも分かっているという、
 とんでもない代物なのです。

 つまり、分子レベルでの「臭いの元」の把握が、時間に比例する成果として期待できると思われるからです(実際にはやってみないと分からないと思いますが)。
 これを鋭敏なセンサーとして臭覚研究しようというとき「ガン患者の尿臭」に注目したというのは、非常に秀逸な着眼点と言うべきです。

 で、こういう自由闊達な研究を、全体主義国家の「研究指導部」が許容できるか、と考えてみてください。
 研究室内で行われる、一つひとつの実験にあれこれ口を出すような体制の中で「動物におならの臭いを嗅がせてみたら・・・」なんて実験は「ブルジョア的な反革命分子」などと科学と無関係なレッテルを貼られる可能性も高いのではないか、と心配になってしまいます。

 科学というのは19世紀英国では「貴族の遊び」だったのです。
 ブルジョア的と言われればそのとおりかもしれない。

 また「猫におならのにおいを嗅がせたら、嫌な顔をするかな?」なんていうことは多くの酔っ払いが考えそうなことですが、それをまじめに研究する高度なシステムを普通の酔っ払いは知らないし持っていない。
 さらに、ガン患者の尿には特有の臭い、という事実は、非常に多くの臨床関係者が知っているにもかかわらず、それをきちんと
 サイエンスの土俵
・・・誰がやっても同じ条件であれば常に同じ結果が現れる再現性という土俵・・・
 に乗せるということは、少なくとも広津先生以前の大半の人が考えつきもしなかった。

 「加齢臭」というのがありますよね。
 あるいは様々な体臭。いやなもの、として扱われ「加齢臭を消す石鹸」なども広く売り出されている。
 しかし、動物がそのにおいを出すというのは、何らかの必然性、理由があってのことで、決して意味がないことは生き物はしないものです。

 フェロモンとして多くの個体に「不快」と思われる臭いを発しているとすれば、個人の意思を超えた「肉体の発する信号」として、種としてのヒトに何らかの情報を発信しているのに間違いありません。

 それに敏感に反応できるか?

 極微の差異に注目してターゲットを設定するとともに、それに最短の手順で行き着く方法を、脇の堅い形でさくさくと詰めていく・・・そうやって九州大学理学部の「ガンの100円検査法」は、比較的短期間に現在のレベルに到達したのだと思います。

■囲い込むよりリードする「兄」へ

 「線虫の臭覚を使ってガン患者の尿中に特有物質を検出」という科学的事実は、それを使って様々な発展研究が可能な、大変重要なファクトです。
 しかし九大の広津先生は、検査技術として完備なものになった時点でそれを惜しげもなく世界公開された。

 ガン患者の尿内にある「その物質」は何なのか?

 時間の問題でそれは決定され、その追究レースは直ちに世界各国で始まっているはずで、またその物質がどのようにガン細胞から出てくるか、通常細胞から出ないのはなぜか、といったポイントから、ガン治療の新たな攻略法が見出される可能性もあるでしょう。
 さらに、これを検出する鋭敏な臭覚を持つ「バイオセンサー」Cエレガンスは、あらゆるゲノムと細胞が把握されているモデル生物ですから、そこから副産物として多くの科学的知見が得られることも間違いありません。

 ちなみにこのCエレガンスをモデル生物として確立したシドニー・ブレナーさんとは一度食事をご一緒したことがありますが、カニのコースで甲羅挙げをバリバリと甲羅ごと食べてしまい「それは違いますよ」と言っても「ああ、そう」と、当時77歳だったと思いますが、自前の歯で噛み砕いて平らげてしまいました。

 ブレナー博士はDNAの二重らせん構造を見つけたクリック博士と隣の研究室で
 「これから分子生物学が発達すると、脳研究が一番重要になる」
として、神経発達が明確に確認できるモデル生物として1950年代、いち早くこのCエレガンスを選び、こまかな発生を徹底して解明されました。

 門下から「プログラムされた細胞死」アポトーシスという驚くべき現象なども明らかになり、仲間とともに2002年にノーベル医学生理学賞を受けています。
 毎年出るノーベル賞クラスより一段上の「戦略性」を持った人物として世界的に知られています。

 元来、南アフリカにユダヤ系移民の子として生まれ、学業優秀だったので篤志家に奨学金を出してもらい、19歳で医学部を卒業、ご褒美の学術旅行で欧米の最先端生命科学を見る旅の途中で、まさにDNAの二重らせん構造を見つけつつあったフランシス・クリックと知り合ったことが、シドニーのその後の人生を決定づけたわけです。

 こんな道のりは、誰かが計画して実現するようなものではない。

 良くも悪しくも自由な体制のなか、志と能力を持った個人が懸命の悪戦苦闘を重ねる中からDNAの二重らせん構造も見つかり、そこから脳と神経系の「ゲノム科学」が必要だと直ちに考えついたシドニーの卓見があり、数十年の努力の末に驚くような成果が得られ、いまや完全なモデル生物となっているCエレガンス。

 しかし、そのCエレガンスに、だれが「おしっこ」を一滴、垂らしてみようと思うか?
  という科学的発想の自由が決定的なのです。

 それを許す体制もあれば、そういう自由を圧殺するローカルで無思慮な短見もあるでしょう。
 戦時中の軍事研究などでは、ビジョンのない上官がせっかく若い人が考えたすばらしい可能性の芽を多く摘んでいた。
 それが戦後、AT&Tベル研究所のような自由な空気の中でいくつも花開いた、とは、ご本人がまさにその経験をされた故・猪瀬博先生(デジタル通信の基礎技術を確立:戦時中の旧軍時代には失敗しておられた)から伺ったことがあります。

 広津先生は、広く役立つ「100円検査法」として臨床に使える形で世界に成果を情報公開しました。
 またご自身も、その後の研究に今日も勤しんでおられるに違いありません。

 秘密主義で業績を囲い込むのではなく、成果を広く人類社会に還元して役立てる、優しい「兄さん」としての日本人科学者の面目躍如たるものが、ここにあると思います。

 Cエレガンスを用いたガン尿特有物質の研究は、幾重にも複数のノーベル賞級業績のアーチに直結する金の卵にほかなりません。
 これをどのような「革命的何ちゃら」で合理化できるか、できないか知りませんが、どうでもよいことです。

 今現在、北朝鮮にも中国にも、また意味は違いますが韓国にも、どれくらい、九州大学が持っている、この柔軟かつ科学の本質に照らして重要な基本姿勢を持っていることでしょうか?

最初の「シード」タネを見つけるのはもっぱら日本の役割。
 と言葉で言うのみならず、具体的な一例を挙げてみました。

 こういう「ノーベル賞クラスのタネ」が、日本には率直に言って「無数」にあります。
 その蓄積は一朝一夕でなされたものではない。
 明治から21世紀に至る膨大な先人の努力、ファクトに対する誠実な姿勢がこれを積み上げてきたのです。

 だからと言って、先人の遺産に胡坐をかいていればよいわけではありません。
 この先、どのようにしていくか、日本の未来を決定していくのは、今を生きる私たち日本人自身にほかならないのですから。



JB Press 2015.11.6(金) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45148

アジア・中東で圧倒的に抜きん出た日本とイスラエル
中韓にノーベル賞が取れない理由~画期的だったトルコ初受賞


●2015年ノーベル化学賞を受賞した3人〔AFPBB News〕

 毎年10月になるとノーベル賞、ノーベル賞と騒ぎ立てられますが、皆さんは昨年のノーベル賞が誰に授与されたか覚えていらっしゃるでしょうか?

 全部で6賞、十数人も「新ノーベル賞受賞者」が誕生しているわけですが、私の身の回りでは1人も思い出せないという人が少なくありません。
 なぜでしょうか・・・?
 業績への理解などが深くなれば、忘れたくても忘れられなくなります。
 報道のレベルが浅いことが一因ではないかと思うのです。

 実は昨年のノーベル医学・生理学賞は私が大学で主催している音楽研究室の仕事とも関わりのあるものでした。
 その内容も記した、本当は昨年末に出るはずだ った新書が、ようやく今年の11月に公刊の運びとなりました。
 仕上げに1年かけたわけで、我ながら良い出来上がりになっていると思います。
 というのは私が良いのではなく、編集者が良いのです。
 筑摩新書「聴能力!」。
 これに関連する話題も追ってご紹介したいと思いますが、この中でも触れるような「ノーベル賞業績」に、話を戻して、より多角的に、問題を深く考えてみたいと思います。

■喉から手が出るほど賞が欲しい中国と韓国

 中国や韓国が喉から手が出るほど欲しがる自然科学系のノーベル賞。
 しかし、今年の医学・生理学賞を中国が得るまで、評価に値するとされた業績はありませんでした。

 では、どうすれば、ノーベル賞が取れるのか?
 「取りたいと思っている程度の人には取れない」といった説明の仕方ではなく、もっとそのものずばりの表現でお話したいと思います。

 ノーベル賞を取るには「ノーベル賞級の業績を挙げればよい」。
 以上、終わり、です。
 決して人をおちょくっているわけではないのです。
 ノーベル賞を授与するに相当するような「重要な攻略目標」を立て、それに「確実な方法で答えを導く」ことができれば「ノーベル賞級の業績」として、世界の認めるウエイティング・リストに載ることになります。

■那須の与一があっぱれな理由

 「那須の与一」の逸話をご存知でしょう。
 源氏と平家が争った「屋島の合戦」で、扇の的を見事に弓やで射抜いたと伝えられる人物です。
 この逸話を引いて説明するなら、最初からまず「ノーベル賞級の目標」という的を狙わなければ、評価されることはありません。
 仮に与一が、屋島を飛ぶカモメを射落としても、平家と源氏敵同士の双方から「あっぱれ」と言われることはない。
 と同時に、適切な的を狙いつつ、確実にそれを射落とす弓と矢の力、つまり方法がなければ、評価に値することはありません。

 2014年、日本国内を騒がしたSTAP細胞詐欺事件を例に取ってみれば、酸に漬け細いチューブを通すなど、ごく簡単なストレスを与えるだけで、体の組織に分化した細胞が万能の幹細胞に戻るとすれば「現象レベルで」ノーベル賞級の業績と言うことができるでしょう。
 つまり「的」はなかなか立派なものが掲げられていた。

 しかし、実際はどうだったか?
 方法がなかった。
 特定の個人が実験すれば再現される、として、ES細胞を使ったおかしな改竄データのインチキは発表されても、万人が地球上のどこで追試しても必ず再現されるファクトは一切示されることはなかった。
 つまり「弓」もなければ「矢」もなかった、ということです。

 しかし、いまここで記した「万能細胞作り」という業績が「現象レベルで」立派な仕事と記した部分に注目してほしいのです。
 つまり、個別の「現象」を超えた「本質レベル」で評価される仕事というものがあるのです。

 個々の現象は素晴らしい、でも「本質的に」より優れているとはどういうことか・・・?
 「そんなの水かけ論だよ」という人もいるかと思います。
 が、こと自然科学、特にノーベル賞の自然系3賞を得る仕事の大半には、その「本質的に卓越した業績」という性格が強く表れているのです。

その「本質」とは何か・・・? 
 「自然法則」の大原則に照らして新しい現象、例外的な出来事、法則の根幹を揺るがすような仕事は、単に既知の自然法則の応用に過ぎない仕事より、科学の未来に明らかなインパクトを与えます。

 例えば東京大学の梶田隆章さんが評価された「ニュートリノ質量」の確認は、今日の標準的な素粒子理論の枠組み、さらには私たちが知るこの宇宙の構造そのものを考えるうえで、根本的な再検討を求める、極めて「本質的」な仕事です。
 私の元同級生の浅井祥仁君(東大教授)たちが検証した「ヒッグス粒子」の検証実験も極めて「本質的」、いつノーベル賞が来てもおかしくないとは、そういうことを言っています。
 そういう「現象レベル」ならびに「本質レベル」でノーベル賞級業績と言われるものがどういう品格ある研究であるか、今年のノーベル化学賞を例にお話してみましょう。

■DNA修復:その現象と本質

 今年のノーベル化学賞はスウェーデンのトマス・リンダール、米国のポール・モドリッチ、そしてトルコのアジズ・サンジャルの3氏に与えられました。
 受賞の対象とされた業績は「DNA修復機構の解明」この共通項がいわば「本質」に近い部分ですが、3氏の業績は各々独立したもので、共同研究者として一緒に仕事したというようなものではありません。

 3氏の仕事を簡単に振り返っておきましょう。
 リンダール博士は、遺伝暗号を記している「文字」の一つひとつにミスがあるとき、それを修復する機構を1970年代に始めて見つける仕事をしました。
 ヒトの遺伝子は極めて複雑な情報としてDNAの中に記されています。
 これを何回となく「コピー」しながら、私たち生物は自分の体、そして種族全体としての生命を維持しているわけですが、この遺伝暗号は物質として極めてもろいのです。

 ヒトの「核ゲノム」は「約31億対」の塩基対でできているとされます。
 ここでは「約31億文字のお経の巻物がある」と考えることにしましょう。
 これを写経する、あるいは暗記して誰かに伝言ゲームで伝えるとしたら・・・。
 すべて完璧というのは、相当難しいのは誰しも分かることでしょう。
 実際にはDNAは分子ですから熱的に振動しており、コピーの度ごとに「印刷ミス」があっても何の不思議もありません。
 この活字一つひとつ(塩基レベル)でのミスを細かに直す「植字工」のようなメカニズムを世界で最初に発見したのが、リンダールさんの素晴らしい仕事です。

 これに対して「活字」一つひとつではなく、まとまった文としての下記間違いを訂正する方法を見つけたのがモドリッチさんたちの仕事です。

 1980年代初頭、遺伝暗号の「文章単位」での間違い(ヌクレオチド・ミスマッチ)を丸ごと修復する機構をモドリッチさんたちのグループは発見、実証しました。
 活字一つひとつのミスを直すのも大事ですが、文章単位でのミスがあると、DNAという写経の「巻物」自体がおかしなことになってしまいます。

 周知のとおりDNAは二重らせんの構造を持っていますが、おかしな部分が混ざっていると綺麗に2重螺旋になりません。
 もつれ絡まった糸玉のようなことになってしまうと、きちんとした遺伝暗号として機能できなくなってしまいます。
 「活字レベル」での修復と一段異なる、より大きなレベルでのDNAの校正という、やはり大きな仕事をしているわけです。
 これらの仕事はDNAの「印刷」・・・複製・・・に関連してのミスの修復ですが、そうではない種類のアクシデントも起こり得ます。
 「被曝」です。

 広島や福島の問題のみならず、私たち地球上で生活する生き物は太陽の光や降り注ぐ宇宙線と無関係に存在することができません。
 と言うより、太陽がなければ地球上に生命が生まれることも、発達することもできなかったでしょう。

 アジズ・サンジャル教授は、リンダール博士やモドリッチ博士の仕事とまた違う本質、つまり、生きとし生けるものが太陽などの光を浴びることによって必然的に生じるDNA異常の修復を解明するという、別のレベルの深い本質に直結している。
 こうした3つの仕事を大きく括る「本質への入り口」がDNA修復という今年のノーベル化学賞の「テーマ」だったわけです。

■受賞後の活躍を期待される「指導的科学者」

 特にサンジャル教授の受賞は記念すべきものと思います。
 彼は自然科学分野でノーベル賞を受賞した最初のトルコ人サイエンティストとなりました。
 彼以前には2006年に作家のオルファン・パムクがトルコ人として最初のノーベル賞を文学賞で受けています。
 パムクはトルコ国内で長年タブーとされてきたアルメニア人・クルド人への虐殺問題に触れ、国際的に大きな波紋を呼び起こしました。
 国内で多くの批判を受けましたが、国際的に高い人道的見識を持つ作家として、ノーベル賞はパムクを高く評価したものです。
 その意味でサンジャル教授はもっとギリギリのところから出発し、社会的にも大変な苦労の末、科学に大きな成果をもたらしています。

 写真をひと目見れば分かる通り、サンジャル教授はいわゆるトルコ系の顔をしていません。
 アラブないしクルドの血を引いている可能性があり、そうしたインタビューを幾度も受けています。

 そんなとき、彼は毅然として、
 「私はトルコ国民であって、それ以外の何者でもない」
 「中東の民族対立を面白おかしく取り上げる西側メディアは深く反省してほしい」
 と、世界市民的で強力な発言でジャーナリストを返り討ちにしたことが伝えられます。
 なんて立派な方だろう、と感心しないわけにはいきません。

 トルコ最南東部のマルディン県の貧しい家庭で、8人兄弟の7番目として彼は生まれました。
 トルコ系、アラブ系、クルド系そしてシリア系と民族が入り混じった、非常に難しい地域の出身で、顔から見るかぎりサンジャルさんにはクルドの血統も入っているように見えます。
 クルドは20世紀初頭、オスマントルコ帝国が解体されたとき、帝国主義列強の都合から「国を否定された」悲劇の民族にほかなりません。

 2015年10月、東京のトルコ大使館前でトルコ系とクルド系の住民間で乱闘がありました。
 その背景とノーベル化学賞が直結するものであると、本当は私たちは反射的に気づくべき、そういう、心に痛みをもつ人に敏感であるべきと思います。

 サンジャルさんのご両親は文字を読むことができなかったそうです。
 でも子供たちの教育に大変熱心で、アジズはイスタンブール大学で医学を修めます。
 ただちに渡米し、1977年に大腸菌の光反応性酵素の研究で学位を取り、その後も一貫して「光と生命」の本質を追求する仕事に貢献してきました。
 DNA修復も大きな仕事ですが、彼の研究文脈の中では複数の本質が交差する1つの業績という位置づけになるでしょう。

 トルコ学士院メンバーに加え、トルコ人として初めて米国科学芸術アカデミー会員にも選ばれたサンジャル教授に、21世紀の指導的科学者として中東と世界を結ぶ大きな期待が寄せられています。
 それは、彼が多くの悲しみと苦しみを体で知る人物で、本当に大変なところで生まれ育ち、そこから人類の未来を開く偉大な業績を挙げた、真の意味での指導者として知られているからだと思います。

■「本質の本質」科学における永遠の問いに連なって

 いまサンジャルさんの仕事で「光と生命」という「本質」と記しました。
 実際サンジャルさんは「DNA修復というノーベル賞級の業績を挙げてやろう」なんて汲々としていたセコい器ではなかった。
 彼は生物の上に満遍なく降り注ぎ、そこに恩恵を与えると同時に、様々なリスクも与え得る「両刃の剣」光というものに照らして、生命現象の本質を分子生物学の土俵のうえで幅広く考える、本当に本物の知性だと思います。
 察するに、彼の両親は文字は読めなかったかもしれないけれど、非常に心の深い人たちだったのでしょう。
 生半可で小手先のやっつけではなく、サンジャルさんの深い洞察と幅広い知見は、研究からも、また社会全体の動きに対しても、ぶれることなく確かな重みを持っています。

 生物は一方で、DNAという巻物で個体と種の命をつなぎます。
 と同時に、この巻物は極めて壊れやすい、いわば「柔らかい」素材でできていて、光を浴びただけでもすぐに「変色」してしまう。
 そうなると、元と完全に同じ情報を伝えることができなくなる。

 さて、ダーウィン以来の進化生物学は、一方でオランダのド・フリース(1848-1935)が発見した突然変異のように、紫外線などの光その他の影響でDNAに様々な変化を受けて進化=変態し続けるとともに、DNAの二重らせん構造を発見したフランシス・クリック(1916-2004)の唱えた「セントラル・ドグマ」が導く、普遍なる遺伝暗号の転写によって個体が分化し、種が保存されるという、実は矛盾する2つの<本質的な原理たち>の間で揺れ動いてもいるわけです。

 リンダール、モドリッチ、サンジャルの3氏とも、発見した事実は個別の業績として「現象レベル」で大変な仕事、「ノーベル賞級」は30年前から分かっていた話です。
 と同時にこれらどの業績も、より本質的な自然法則、もっと言えば
 「生命とはいったい何なのだろう?」
 「遺伝子という不安定で柔らかい、あいまいなメディアを使って、生物はどうして自己を保存しつつ、進化というジャンプも継続し続けてこられたのか?」
という、いわば
 「複数の本質が交差する超弩級の問い」
にも、大きなヒントを投げかけているわけです。

★.自己が自己でありながら、自己でないものに変化するとき、
 大半は死滅しつつ、
 一部は「進化した新しい種」として残っていくという不思議。

 例えばこの問いに発して「ガンとはいったい何なのだろう?」と問う研究の「知の品格」を考えてみてほしいのです。
 「ガンが治ったら素晴らしい」。
 それは間違いありません。
 「ガンの特効薬ができたら儲かるぞ!」。
 製薬業界などは当然そう考えるでしょう。

 しかし、ゲノムで見れば私たち自身以外の何ものでもない中から<そうでないもの>として、放置すれば私たち自身を死に至らしめる「ガン」も生まれれば、やはり<そうでないもの>でありながら、優れた形質として遺伝的に残っていくものも現れる。

ダーウィンは「自然淘汰」「適者生存」という生命世界の冷徹な大原則を示しましたが、その分子生物学的な詳細はいまだ全く分かっていないと言っても大げさではない。

 シュレーディンガーやデルブリュックといった先達が生命現象を物理の透徹した観点から捉えたとき、最初から指摘されてきた<永遠のなぞ>と言うべき、本質的な問いがここにあります。

「今年のノーベル賞はDNA修復だそうだ」
 「へー、それって何の役に立つの? 儲かる?」

 そういうレベルではない、終わりのない深い知の問いがここにあります。
 リンダール、モドリッチ、そしてサンジャルの3氏とも、そうした哲学的に深い彫琢に満ちた受賞講演を、ちょうど今頃準備しているのに違いありません。
 こういう観点を共有できる社会、人材、また研究行政の体制などが整えば、5年や10年が大きな成果を上げるのに十分な時間になり得ます。

 幸か不幸かアジアを見渡せばどうでしょう?

 アジアに関して言えば、中国、南北朝鮮、台湾、ASEAN(東南アジア諸国連合)の国々など、多くの場所でこうした深い根がいまだ共有されていない。

 日本は圧倒的に例外であるのが分かるでしょう。

 では中東に目を向けると・・・。
 イスラエルが例外的であることが分かります。

 いまサンジャルさんがトルコ人として最初の自然系ノーベル賞を受賞したとき、グローバルなバランスの中で人類と科学の発展的な明日を考えるのは、意味があることだと思います。