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JB Press 2015.11.17(火) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45275
日本に追いつき追い越せでは差は永遠に縮まらない
中韓にノーベル賞が取れない理由~ペーパーテスト偏重の罠
11月13日金曜日に発生したパリ同時多発テロ、非常に重大な事態で推移を慎重に見守る必要があると思います。
2001年9月11日にニューヨークで発生した事件と同じく「同時多発テロ」という表現が用いられており、アルジェリア紛争以来の「非常事態宣言」を発したオランド大統領もすでに「戦争」という言葉を口にしている。
実は私は事件発生直後から緊密に欧州と連絡を取っています。
このコラムには本業についてはほとんど書いていませんが、私の音楽の仕事は欧州に中心があり、パリでもいくつか進行中の計画があります。
「科研費」のプロジェクトなどはいったん休止した方が安全という方向に議論が進みつつあります。
私たちが日頃耳にする「ドミソ」という和音。
こうした響きを作り出す「ポリフォニー」という音楽形式は西暦AD1200年前後にパリのノートルダム大聖堂で生まれました。
私の率いる研究グループではこの響きのダイナミクスの本質をつかみ出す音楽の基礎的な仕事に長年取り組んでいます。
観光地でもありキリスト教会であるノートルダムでのいくつかの仕事は、しばらく安全を見た方がよいのではないか、というかなり詰めた相談を今まさにしている最中です。
今月は私が理事長を務める国際時空間設計学会(ISTD)の世界大会を東京大学本郷キャンパス、福武ホールで開催します。
このサイトからお申し込みいただければどなたでもお運びいただけます。
この「学会」は特殊な「学会」です。
特定の「学術のための学術」ではなく、音楽のため、あるいは哲学や文学、宗教が抱える問題を解決する「ため」に、最先端の科学技術を惜しみなく使うという、世界で1つしかない運営をしているのです。
普通は「学問」が大事で、その出汁に音楽が使われたりしますが、私は音楽の人間で、音楽が大切です。
科学も技術も音楽の価値目的のために用いる、そのスタンスで貫いてきましたし、今後も一生変わりません。
文系理系の必要なあらゆる知を動員して音楽の本質を明らかにするというような「学会」は、かつて地上に存在したことがありません。
ISTDも元来は、建築音響の脳認知を扱う学会で、それを音楽、文学、宗教、哲学などの諸問題に、値引き一切なしの複数のテクノロジーを駆使してアプローチする場へと6年ほどの年月をかけて育ててきた経緯があります。
「学会」は堅苦しそうだけど興味はある、という方には2015年11月24日の夕方18時からは東京大学本郷正門前のフォーレスト本郷でオフィシャル・バンケットをお勧めします。
ポータルサイトからお申し込みいただければ、どの行事でも、どなたでもお運びいただけます。
名古屋から真宗大谷派のご僧侶有志メンバー(実は「笑う親鸞」の仕事でご一緒した「戦友」の皆さんです)にお運びいただき、実際に勤行しながら、その時空間ダイナミクスを明らかにするといった、かつて地上に存在せず、今後もなかなか他の人はやらないだろう、見逃すともったいない(と私は思ってやっていますが)ことをいたします。
ご興味の方は上リンクあるいはオフィシャルアドレス(ISTD_07@yahoo.co.jp)まで、どうぞお気軽にお問い合わせください。
◆余裕ある知が創造の源となる
私たちの国際時空間設計学会ISTDは、国際専門誌JTD(時空間設計雑誌)も定期刊行しています。
そこでは様々な問題を取り上げますが、いずれも学術の信頼水準には厳しいチェックのシステムを設け、信頼するに足る知、私たちが生命を終えた後も、長く残る価値ある成果を遺していくべく、細かいこと、小さな努力を毎日続けています。
先進国からの参加もありますが、途上国の専門家からもすばらしい投稿をいただくことが珍しくありません。
2015年は、東アジアでノーベル賞先進国・日本の横で中国に最初のサイエンスの賞、西アジアでやはりノーベル賞先進国イスラエルの横でトルコに最初のサイエンスの賞という、東西のバランスが(結果的かもしれませんが)新たに生まれました。
中国もトルコも、科学や技術の観点からはいわば典型的な「中進国」と言えるでしょう。
経済規模などで考えるなら「新興国」として名の挙がるBRICs=ブラジル、ロシア、インド、中国の4カ国は、来歴はおのおの違うものの、資源供給力や人口の多さ=マーケットの規模と潜在成長可能性など、日本をはるかに凌ぐものをたくさん持っています。
しかし「量」はあっても「質」が出にくい。
一番分かりやすいのが「ノーベル賞」のような最高品位のオリジナルな仕事が出てきにくい。
となると、何とかしたいと思うのは人情でしょう。
俄然、国を挙げて頑張ったりし始める。
ところが、その「頑張り方」を間違えると、どんどん逆方向に進んでしまうことがあるんですね。
「後進国型のガリ勉」くらい、創造性とまるで反対のものはない。
これは、すでに東京大学で教えて16年、50歳を迎えましたから、経験に即して太鼓判を捺してもいい。
シャカリキになればなるほど、残念な方向に近づく「残念な努力」が、確かに存在しています。
今回は、あまり触れられないかもしれない、こうした話題について考えてみたいと思います。
余裕のある知性こそが、本質的な創造に一番近いところに立っているという鉄則です。
◆「追いつけ、追い越せ」という間違い
「後進国」の特徴とは何でしょうか?
世界中に様々な後進国があり、その特徴を一言で言うのは難しい。
ただ、間違いなく言えることは「先進国」より遅れている、ということです。
つまり、自分たちより前を走っている連中がいる。
「フロントランナー」の背中を見つめながら、ことによっては「こんちくしょう!」などと思いながら頑張っている。
それが「後進国」すべてに共通する「後進性」の一大特徴と言えると思います。
そうなると、その「フロントランナー」に追いつこう、という意識になるわけですね。
何とかして、あいつらには負けまい、とする。
ここでは分かりやすいように、中国や韓国の立場に立って、日本を見ることにしましょう。
いつでも日本は前を走っている。
経済規模では中国は日本を凌駕したかにも見えた・・・。
しかし、本質的な基礎科学や先端的な技術革新、その創造性といった観点では、残念ながらまだ日本の蓄積の足元にも及ばないのは、当事者が一番知っているわけで、勢い「ガンバレー!」という大号令がかかることになります。
途上国で本屋に行くと分かりますが、やたらと厚い教科書やワークブックをいっぱい売っています。
概して途上国の学生はまじめで熱心、そして大変な努力家です。
今日「ゆとり世代」の日本人では考えつかないようなすさまじい努力で。
がりがり問題を解いてきたりする。
「日本国内では絶対に無理です。
ちょっとキツイ課題を出すとメンタルにだめになっちゃう学生が出たりするのが悩み」
と先日ある高等学校関係者から伺って、さもありなんと思いました。
そういうデリケートさと、後進国エリートの上昇志向とは全く無関係です。
そこではむき出しの弱肉強食みたいなガリ勉が当然のこととされている。
後進国の演習書など見てみると、驚くほど高度な内容を練習問題扱いで学生に提示している場合があります。
何も、そんなに難しいことをやらなくても、もっと基礎的なことをきちんとやればよいのに・・・。
と、私などは思うのですが、何せ発想の根本が「追いつけ、追い越せ」ですから、初歩レベルでぐずぐずしていることに我慢がならないのでしょう。
たとえて言うなら、小中学校の内容が怪しいのに、高等学校レベルの問題を浅く扱っている。
あるいは、教養レベルの数学や物理がおぼつかないのに、大学3~4年レベルの専門内容を、表面だけ撫ぜる風情で、やたらたくさん羅列している。
統計など取ったことはありませんが、こういう傾向、トピックスだけは背伸びして先進国に負けまいとしつつ、足元の基礎的な部分がかなり怪しい傾向が、「後進国教育」の一大特徴になっているような気がします。
で、こういうことを続けていると、人は大きく伸びないのです。
◆日本の例で考えると・・・
実はこういう事例は、残念ながら日本も無縁ではありません。
大学入試を例に挙げてみます。
日本の私立大学文系、社会科の入試問題には、驚くような細かい内容を「入試問題」として問うことがあるようです。
2015年に上智大学で出題されたという以下の問題を見てみましょう。
>>>>
問8:エルサルバドルとホンジュラスとの間で、1969年に、あるスポーツの試合が原因となって戦争が起こった。そのスポーツはどれか。
a サッカー b バレーボール c ベースボール d ホッケー e ラグビー
<<<<<
大変申し訳ないですが、私の感じ方では、これは「問題」ではなく「クイズ」であって、学生の実力の何も見ることはできないと思います。
仮に知っていればそれでおしまい。
知らなくてヤマ勘で答えても、あるいは中南米だからサッカーだろうと察しをつけたとしても・・・。
正解は「サッカー」で、もともと緊張が高まっていたところにワールドカップの地区予選と国境紛争が連動してしまったという経過だったようで「スポーツの試合が原因となって起こった」戦争というのは出題自体が誤っていると思います。
しかも、ここから学生の考える力の何事も見ることはできません。
仮にこれに類するナゾナゾを100知っていても、千、いや万知っていても、大学に入学した後、学生としてゼミで優れた発表をし、充実した卒論を書いて第一線で活躍する人物たり得るか、何の情報も与えてくれない。
申し訳ないけれど、また上智大学に何の他意もありませんが、私はこのクイズが大学の入学考査として、合格するに適した人材を選考する「考査」になっているとは、到底思うことができません。
こんなものをたくさん知っていても、ただの「物知り博士」であって、テレビ番組で優勝することはあっても、学問の王道とも、社会での活躍とも、一切何の関係もあるわけがない。
で、こういう流儀で「一見最先端風」のナゾナゾを1000集めても1万集めても、最先端での知的創造、クリエイティブなマインド・セットにはかすりもしない。
上智大学自体は優れた大学で、この悪問は例外的なものと思いますが、万が一こんなことばかりになってしまったら、率直に言って日本の教育も学術も、あるいは先端基礎研究も、面会謝絶級の危篤状態と言わねばなりません。
本当にものを作るうえで必要なのは「その場でゼロから考える力」です。
私も様々な「問題」を今まで作ってきましたが(入試に関することは、関わっても、関わらなくても、すべて在職中は守秘ですので何も申すことはできませんが)極力「物知りクイズ」は避けるよう一番の注意を払ってきました。
事前の知識など最低限でいい。
その場で考える力があるやつなら、何とかして答えを導きだせるような問いが「入試問題」として優れているのです。
例えばうちの大学でかつて出題された以下のような問いをご覧ください。
>>>>>
問: 円周率が3.05より大きいことを証明せよ。
<<<<<
どうですか?
ちょっと考えてみてください。
瞬時で解ける方もあるでしょう。
あえてここに正解など記しませんが、円に内接する正多角形の辺の長さで考えればよい。
実はこれ、ニュートン自身が「プリンシピア・マテマティカ」でもこうした計算をいろいろしている、由緒ある思考系列からの出題で「ナゾナゾ」とはおよそ品格の違う出題になっています。
気になる方は東大の過去問集に「解答例」が載っていると思いますから見てみてください。
ただ先回りして断言しておきますが、どんな「解答例」も唯一の正解などではない。
こうした「一行だけの出題」は入試として優れたものと言うことができます。
と言うのは本当にタフにものを考えられる人と、そうでない人を、はっきりと分けることができるからです。
はっきり言って、いくらでも異なる証明法があります。
悪戦苦闘していれば、何とか答が出る。
大変なのは採点です。
5000人受験生がいれば5000通りの答えが出てくるので、一つひとつきちんと読まねばならないけれど、まともに考える力のある受験生なら、何かしらやってきますから、それをしっかりフォローしてあげて、きちんと加点すればいい。
こういう出題をしたとき、ただ、唯一困るのは、延々白紙しか返ってこないことで(東京大学学内の試験でしばしば体験します)、この頃の学生は、すでに知っているパターンの問題以外は「後回し」「時間のムダ」として手をつけません。
悪い意味で受験ズレしてたりする。
こうなると、0点ばかりで全然差がつきません。
となると、出題者としては困ってしまうわけですが・・・。
ともあれ、こういう問題で、仮に悪戦苦闘しながらでも、何とか答えを出す受験生が、大学に入ってから伸びる人材だし、社会に出てからも仕事ができる人材になる期待が持てる。
「知っていれば終わり」というのは「知らなかったらそれまで、バイバイ」ということを意味しますから。
「物知りなぞなぞクイズ」方の知識問題というのは、すでに出題としては役割を終えていると思うのです。
なぜと言って、どんな仕事の現場に行っても、ネットに接続していれば、瞬時で検索してそれで終わるからです。
丸暗記していればよい、というような物知り博士の知恵で言えば、どんな「物知り秀才」よりも、一番安いUSBメモリーの方が、はるかに大量のデータを記憶でき、はるかに高速にそれを読み出すことができます。
ネット時代に必要な人材は「丸暗記型のガリ勉」ではないのです。
ところが、コンピューターもスマートフォンも持込禁止の試験場で、その種のテストで「成功体験」してしまい、「これでいいのだ」などと錯覚してしまうと、若い人が大いに将来を損ねるわけです。
大学に入って以降、成績の少なくとも半分は「リポート」でつけられます。
ペーパーテストの比重は軽くなる。
さらに「卒業論文」などというのは、巨大なリポートの塊であって、密室に閉じ込められて1時間半で何とか答えろ。
という、ビニールハウス栽培みたいなアカデミックのインチキではなくなってしまうのです。
そう、ペーパーテストなんて、嘘っぱちなんですよ。
あんなものは・・・。
採点者の時間の都合があるから、持ち込ませないであれこれやらせているだけで、本当に本当の実力を見ようと思ったら、辞書でも資料でも参考書でも何でも持ち込み可。1週間どころか1か月でも1年でも時間を与えるから、
「お前の持ってるものすべてをかけて、意味あるものを出してみろ!」
とやられたとき、何が出せるかなんです。
ノーベル賞を含め、研究業績というのはすべてこれです。
つまりペーパーテスト的には「カンニングし放題」の状況で、どこまでオリジナルなものが作れるか、という話なのです。
発展途上国型の秀才の悲劇は、変にペーパーテストはクリアして、秀才ではあるのですが、何を見てもよい、何を調べてもいいから、あなたにしかできないオリジナルなものを出して御覧なさい、と言われると、何をしていいか分からなくなる、という「創造性の決定的な欠如」にあるのです。
この点、日本には「創造性がある」というような書き方に、私の話はなっていますが、必ずしも「すべての日本人がそう・・・」などとは、全く言うことができない。
創造性の豊かな人もいれば、さほどでもない人もいる。
ただ、その自由を禁圧するような全体主義体制とか、国民皆兵の主体性を破滅させる制度とか、そういう要素は近隣東アジア諸国の比でごく少ない、被害が軽微である、ということを言っています。
でも、仮に悪問、愚問でテストされ、それを通過して大学入試に合格などしてしまい、運悪く「これでいいのだ」などと錯覚したりした日には、その若者は一生の損害を被っていると思います。
なぜ悪問入試で合格などしてしまったのか、実に不幸なことで、そんなものでは断固落第し、本当の実力、何もないところでゼロから自分で考える力で、その人自身の実力を評価されて受験というハードルをクリアできなかったことは、本当に惜しむべき不運としか言いようがありません。
国立大学文系の「改組・再編」で、様々な誤解と議論がありますが、私自身、ある種の部局の解体再編成に大賛成ですし、なぞなぞ入試のようなものは学生に誤った成功体験を与えるリスクがありますから、はっきり有害無益と思っています。
基本は語学と数学だけでいいんじゃないんでしょうか?
あとはロジカルなサイエンス、理科なら物理や化学、文科なら日本史、世界史などでガチーッと論述させる、いずれも記述式の、出題は1行程度でもすむ本質的な出題。
その代わり、1次試験は最低5教科7科目、バランスの取れた知性を持った若い人をしっかり選んで、適性のある人にぐんぐん伸びてもらう、そういう知のファームとして、大学が機能すべきと思うのです。
そういう自在な若い知性が育つような教育環境、また研究環境であれば、どこの国であろうと創造的な芽が大きく育つはずです。
現在の中進国、後進国大半の状況は残念ながらそうした自在さとは程遠いものにとどまっています。
日本も実のところ、少数の例外がそういう自在な知性を生み育てている状況で、それを日本全体に広げようという志で始まった「ゆとり教育」がどういう結果を生み出したかは、社会が周知するとおりです。
後進国流の浅いガリ勉は深い知性を生みにくい・・・。
これにはもう1つ、大きな特徴があります。
実験・実習教育(が欠如した薄っぺらいペーパーテスト)に関連する問題について、次に考えてみることにしましょう。
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JB Press 2015.11.20(金) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45322
日本を蝕み始めた「試験で安易にAを取る」症候群
中韓にノーベル賞が取れない理由
~実験を避ける悪しき風潮
中国や韓国など隣国に限らず、日本でも、ノーベル賞など国際的に高い評価を受ける業績、いわば創造的な成果が生まれにくい構造的な要因がいくつかあります。
その最大のものは「創造的な成果」を生み出す訓練が、現在の教育では「ほぼ」皆無であることでしょう。
まずもって大半が「二番煎じ」であり、9割がたはすでにある結果の後追いにすぎません。
「あらかじめ決まった正解」をなぞる、早い話が丸暗記ですんでしまう。
で、残り1割弱に「正解のない問題」があるのですが、これに対する姿勢が根本的に間違っています。
例えば夏休みの「自由研究」という課題があったとしましょう。
こういうものは「受験には出ない」から軽視するという残念な人が多い。
実は「iPS細胞」でも「フィラリアを攻撃する抗生物質」でも「ニュートリノに質量はあるか?」でも、いずれもこのところ日本がノーベル賞を受けた業績ですが、全部
「正解のない問題」に全身全霊で取り組んで「新しい正解」を生み出した仕事
にほかなりません。
この問題について考えてみたいと思います。
■11.13平和記念法要
少し別の話題から始めたいと思います。
11月23-25日にかけて私が責任を持つ国際時空間設計学会の第七回世界大会を東京大学福武ホール で行います。
学会そのものは英語が公用語ですが、24日の夕方18時から、東京大学本郷キャンパス正門前の「フォレスト本郷」で開くオフィシャル・バンケットは日英語共用で、残席がある限り一般の方にも公開で、蓮如以来の真宗大谷派の講式にのっとって「11.13平和記念法要」と、その時空間分析ということをしようと思っています。
一般の方にもポータルサイトからお申し込みいただけます。
11.13パリ同時多発テロが勃発した直後から、法要そのもののテーマ・コンセプトを再考しようということになり、短時間でまとめ直したものであります。
蓮如という人は「メディア」の観点から見ても大変な傑物と思います。
ここでは詳しいこと省きますが、ご興味の方には「笑う親鸞」(河出書房新社2012) など、以前書いた私の本をご参照いただければ幸いです。
一言で申すなら、真宗のお寺―道場を「猿楽舞台」としてすべて再構成し、親鸞の教える衆生済度の教えを、文字を一切解さない一般大衆にまで徹底して布教、定着させることに成功したわけです。
「加賀一向一揆」など一向宗の民衆パワーがいかに強大なものであったかは、いまさら強調するまでもないでしょう。
一向宗=本願寺は実質、戦国大名で、あの織田信長がほぼ唯一、打ち破ることができず、和議を結んで妥協せざるを得なかった「石山合戦」での凄まじい強さも、徹底した民衆布教による強烈な信者の肉弾戦が果てしないものであったことに起因します。
そのような、浄土真宗=一向宗の強烈な布教にはいくつもの秘密、実際にはオーディオ・ビジュアルの工夫がありました。
お御堂の建築、法要での僧侶の着席位置や語り念じる発声の方向など、蓮如講式には21世紀のバーチャル・リアリティ程度の技術ではとても追いつけない「3D演出」の粋が尽くされています(現在のバーチャル・リアリティでどう兵士を教育しても「石山合戦」に勝てる人材は育成できません)。
そう、オーディオ・ビジュアルには軍事技術としての面があります。
もっと言うなら、現在イスラム国(IS)がパリ同時多発テロという直接的な暴力紛争とともに、ネットワークメディアを駆使してメディア・テロールを進めていること、これに対して国際的なハッカー集団アノニマスがサイバー攻撃を「宣戦布告」し、現在熾烈な情報戦が戦われていることなども、報道されているとおりです。
現在の浄土真宗各派に、かつての一向宗の戦闘的な思想はないでしょう。
いわば戦いを克服した後の澄み切った段階にあると言えると私は思います。
時空間設計学会では元来、ナチスドイツのホロコーストやスターリニズムによるソ連粛清、戦時中の日本のメディア情宣やルワンダでラジオが扇動したジェノサイド、メディア・マインドコントロールを駆使したオウム真理教の犯罪などに、サイエンスの徹底した観点から向き合い、長く価値ある成果を求めてきました。
その観点から、ISによるパリ同時多発テロを見据え、平和の回復を祈念する場を持ちたいと思っているわけです。
ご興味の方はどうぞご参加下さい。お問い合わせは事務局アドレスistd_07@yahoo.co.jpまでお願いいたします。
■「正解のない問い」に新たな正解を導く
いま触れた
「ISの暴力紛争ならびにサイバーテロリズムに対して、どのように対抗していけばいいか?」
という問いは、
典型的に「正解」などあり得ません。
しかし私たちが直面する喫緊の一大事です。
この問いに対して「正解がない自由研究で、受験に関係ないから、適当でいいんだよね」と「やってみました。
面白かった。
子供らしい素朴な感想文」で応じていたら、どうなるか・・・?
良くも悪しくも「前例」を丸写しにすることもできません。
現在ISが行っているような「戦争」そっくりそのままの「前例」などなく、世界はある未曾有の状態に直面している。これは間違いありません。
そういうとき、どのようにして「正解」を求めていくか・・・。
唯一の模範解答などあり得ません。
しかし、その時点時点で、セカンドベストも含め、可能な限りの「正解」を模索し、計画し、実行しなければなりません。
パリ市内の繁華街を狙う、許されざるこのような犯罪には前例がありません。
しかし、やはり平時の先進国大都市をターゲットとする無差別テロとしては、東京都内を狙って地下鉄にサリンを撒くケースなど、様々な先行事例があります。
それらを丹念に「自ら調べ、自ら学ぶ」基本姿勢、そして自分の頭でゼロから考えて、誰が見ても妥当と思う「新しい結論」を導き出す「知の腕力」がここでは問われているわけです。
テロ対策や軍事紛争など、物騒なケースからお話しましたが、これはあらゆる分野に共通のことです。
すでに正解があるものをなぞるのではなく、
「これを解くべきである」という新しいターゲットを設定し、
それが解決されればこんなご利益があるといった展開、
またこれを解決するのはこういう攻め方が有効といった外堀からの攻略、
可能なあらゆる手筋を尽くすのが「基礎研究」というもの
の実際にほかならないのです。
例えば、電気的に中性でとらえどころのない極微の素粒子であるニュートリノに「重さ」があるか?
という問いを立てた瞬間には「正解」など一切存在しませんでした。
正解を与えるのは誰か?
理論的には人間であり、実験結果は自然が与えます。
1950年代から60年代にかけて、まずユダヤ系イタリア人(ながら後にソ連に亡命した)物理学者のブルーノ・ポンテコルヴォや名古屋大学教授だった坂田昌一など、時代の最も鋭敏な理論物理の俊才たちが「もしニュートリノに質量があったなら・・・?」という思考の実験を、数理の上で組み立てました。
しかしそれを検証するには、その先まるまる1世代の時間と、新たな測定技術の確立、そして精緻化が必要不可欠でした。
1980年代になって稼働するようになった新たな「水性素粒子検出器」カミオカンデをさらに高度化して、「ニュートリノ振動」の現象がもしあるとすれば観測できるまでに精度を上げたものが「スーパーカミオカンデ」だったわけです。
「カミオカンデ」「スーパー・カミオカンデ」いずれも建設の時点では「正解の(定まってい)ない問題」に白黒の決着をつけるために、相当額の予算が投入されて建設されている。
逆に言えば、すでに答えが出ている問題であれば、
そんな巨費を投じて新たな実験装置など作る意味は全くない。
「答えのない」自由な研究の中から、人類が手にする新しい叡智を問い、問題にシロクロの決着をつけること、これこそが「創造的な成果」の本質にほかならないわけですが、いったい、そんな教育を(あえて中国だ韓国だと外国のことを言いません)日本の教育制度のどこで、実践しているでしょう・・・?
■「朱子人」再生産の現実見直しを!
日本の小学校で「答えのない問題」に誠意を尽くして解答を与えるような、どんな教育を実践しているでしょう・・・?
率直に言って、「貴重な例外」を除いて、全国一律という意味では目ぼしいものを挙げることはできないのではないでしょうか?
もっと顕著なのは中学校以上です。
中学も高校も、例えば自然科学科目において「実験教育」はミニマムに抑えられてしまうリスクが常にある。
理由は明らかです。
まず実験はお金がかかります。
手間も必要、先生にも負担がかかります。
さらに実験は、学生生徒の達成結果が、必ずしも成果として(数字など)分かりやすい形で示されません。
で、一番悪いことには「実験」そのものは受験科目として出題されない・・・と思われている。
実際には、記述式の出題者など、紙の上で捏ねくっても分かりにくいけれど、実験を理解していればすぐに解けるような問題を出すことがあります。
で、そういう問いへの正答率は押しなべて低い。
まず「実験」というもの自体が非常に少なくなっている。
さらに、比較的「貴重な例外」である実験教育において、学生生徒が課題に向き合う姿勢が「なっていない」のです。
出題される問題は「必ず正解がある」と学生たちは思っている。
で、キャッチャーミットに合う球を投げて、合格点、高得点を取ろうとする。
東京大学で教えるようになってそろそろ17年、優に5000人はくだらない学生たちを見てきましたが、
この傾向はもとより顕著だったのが「ゆとり世代」になって、さらに症状を深めている観
があります。
つまり「実験」とは「手間がかかって面倒なこと」であり「どうせ計算すりゃ分かってんだろ、いちいちこんなこと測らせて、意味ねーよ」くらいに思っている学生が、実際に存在していること。
いわば
「紙の上のありもの」をなぞって、ことなきを得ようとする「朱子学タイプ」いわば「朱子人」が、
大学入試合格者に少なからざる割合含まれていることが問題だと思うのです。
言ってみれば「朱子人」の再生産を見直し、
知行合一の「陽明学タイプ」つまり「陽明人」を育ててゆくべき
ではないか?
旧習の「死守」に朱子人=守死人から、
「到良知」の「養命人」を育成する、本物から直接学ぶ人材育成を検討すべきだと思うのです。
しかし、現実は全く異なっている。
時間内にさくさくと(できるだけ短い時間で)課題を終わらせ、さっさと教室から出て、お決まりの解答をそれらしく書いてAをもらう(それでもAはついてしまう)のがスマートだと誤解される傾向が、少なくとも東京大学教養学部の1、2年生の理科系必修実験には色濃く疑われるように思います。
かつて私は「情報処理」という必修科目で実習を担当して、この傾向を痛感しました。
30年ほど前、自分たちが学生だった頃にも、そういう風潮はなくはなかった。
それがもっと重症になっている様子で、これでは格好だけ実験しても、実験したことにはなりません。
現実に機器が示すデータと違う「これはほしい、正解」というシロモノを貼りつけてリポートとして提出すればAがつく。
「こりゃ楽チン」と味を占めてしまった延長線上に、コピーペーストで博士論文をごまかしたり、画像処理ソフトで嘘のデータを捏造したり、既存のES細胞、受精卵や胚を用いながら新しい幹細胞機能獲得のメカニズムを発見した、などという大嘘をついて、恥じも悪びれもしないような代物を作ってしまったのではないか?
そんな疑念を強く持ちます。
■新正解は自分で導け!」
自ら調べ自ら考える「本物を作る教育」を!
いまサイエンスの実験に関してお話したことは、社会科学でも人文でも、あるいはスポーツでも芸術でも、何でも通低する基本だと思います。
人がすでに準備した「模範解答」を暗記したり引き写したりするのは一番恥ずべき情けないこと。
自分自身の手で、自他ともに認める正解、例えば数学で定理の証明を導くようなこと。
それがクリエイティブの基本と、早くから教えられたことは、私自身にとっても大きな意味を持つことだったと思います。
大学の教養学部時代、必修の実験で答えが出ないと、私は非常に面白くなく最後まで粘って意地でも結論をキチンと確定しないと気がすまなかった。
2年生の前期、必修の科学実験で、川の水の未知試料とされるものから含有される金属を確定する課題があったのですが、中学高校時代からサイエンスのクラブで気が済むまで実験していた私は、どうにもうまくいかず大変不本意な状況で夜を迎えていました。
金曜日の実験でしたが、暗くなっても納得がいかないので、きちんと当たらせてほしいと担当の助手さんに話したところ、じゃ明日来てやっていいよ、ということになり、土曜日に1人で追試をさせてもらいました。
時間はかかりましたがめでたく分析は成功、また土曜日にわざわざ教室を開けてくれた助手さんとは、私が持っていた楽譜を彼が目にして、あれこれ音楽の話をしたりしました。
それから20年くらい経って、私が東京大学に音楽の教授職として赴任したあと、定期試験の応援監督として、その助手だった先生がサポートで入ってくださったことがあり、そのお話をしました。
先生は当然ながらそんなことは覚えていませんでしたが、教員同士の会話が弾みました。
さらにあれから10年ほど経ち、30年前に土曜日わざわざ実験室を明けてくださった若い助手さん、小川桂一郎博士は現在、東京大学教養学部長を務めておられます。
入試などの折にご一緒するたび、懐かしくその時のお話をさせていただきますが、ああいう「本当に納得のいく実験をさせてくれる先生」が、いま教養学部全体の教育指導に責任を負っている。
個人の思い出ではありますが、単なる無名の学生の1人としてご指導いただいた経験に裏打ちされて、小川さんのご指導のガバナンスに私は強い信頼感を覚えるのです。
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