2015年12月31日木曜日

過剰人口の日本(8):15年は29万4千人自然減少、出生数は100万8千人、5年ぶり増加

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NHK 1月1日 5時00分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160101/k10010357991000.html

日本の人口9年連続で減少 減少幅は過去最大に



 日本の人口は、去年1年間に亡くなった人が130万人を超え戦後、最も多くなったことから、9年連続で減少することが厚生労働省の推計で分かりました。
 減少の幅は、去年1年間で29万4000人と過去最大になる見通しで、人口減少がさらに加速し ています。

 厚生労働省の推計によりますと、去年1年間に生まれた赤ちゃんは100万8000人で5年ぶりに増加に転じ、おととしよりおよそ4000人増えました。
 一方、亡くなった人は130万2000人で、おととしより2万9000人増えて戦後、最も多くなりました。
 その結果、日本の人口は9年連続で出生数が死亡数を下回る「自然減」となり、減少の幅は29万4000人と過去最大になる見通しで、少子高齢化に伴い人口減少がさらに加速しています。

 また、去年1年間の結婚の件数は戦後、最も少ない63万5000組、離婚の件数は22万5000組で、50秒に1組が結婚し2分20秒に1組が離婚している計算になります。
 厚生労働省は「雇用情勢の改善や保育所の整備が進んだことなどが出生数の増加につながった一方で、高齢化が進み亡くなる人の数も増えていて、今後も人口減少が続くとみられる」と分析しています。



TBSニュース (01日06:23)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2670386.html

 2015年生まれは100万8千人、出生数5年ぶり増加



 去年1年間に生まれた赤ちゃんは推計で100万8000人と、5年ぶりに増加したことがわかりました。
 厚生労働省の推計によりますと、2015年に生まれた赤ちゃんは100万8000人で、前の年に比べ、およそ4500人増えました。出生数が増加するのは5年ぶりです。

 一方、死亡した人は130万2000人で、戦後最多となりました。
 この結果、日本の人口は、9年連続で出生数が死亡数を下回る「自然減」となりました。
 減少幅は29万4000人で統計を開始した1899年以来、最大となりました。

 1人の女性が一生の間に産むと推定される子どもの数「合計特殊出生率」は、出生数が増えたことから、おととしの1.42に比べて高くなる可能性があるということです。(01日06:23)



日本経済新聞     2016/1/1 5:00
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG28H6C_R31C15A2CR8000/

 出生数5年ぶり増加、100万8000人 15年推計
子育て支援影響か

  2015年に国内で生まれた日本人の赤ちゃんは、統計を始めた1899年以降最低だった前年を4千人上回る100万8千人で、5年ぶりに増加に転じたとみられることが31日、厚生労働省の人口動態統計の年間推計で分かった。
 死亡数は130万2千人と戦後最多を更新しており、人口減少は続いている。



 同省によると30代の出産数が前年より増えており、「雇用状況の改善に加え、保育所の整備などの子育て支援策が影響している可能性がある」(担当者)とみている。

 年間推計は10月までの速報値などを用いて算出する。
 死亡数は前年比2万9千人増の130万2千人と戦後最多を更新した。
 出生数が死亡数を下回る「自然減」は29万4千人で、前年を2万5千人上回って減少幅は過去最大となった。
 自然減は9年連続。

 わずかながら増加に転じた出生数も過去2番目に少なく、同省は「少子高齢化の傾向は続いており、しばらくは人口は減っていくだろう」としている。

 15年の死因の最多はがんの37万人。
 次いで心筋梗塞などの心疾患(19万9千人)、
 肺炎(12万3千人)、
 脳卒中などの脳血管疾患(11万3千人)
と続いた。
 死因上位の4疾患は5年連続で順位に変化が無く、死者数の約6割を占めた。死産は2万3千人で前年比千人減った。

 婚姻件数は同9千組減の63万5千組で戦後最少を更新した。
 婚姻件数は年間100万組を超えた1970年代前半をピークに、その後は一貫して減少傾向が続いている。
 厚労省は「結婚適齢期の人口が減っているため」としている。

 一方、離婚件数は22万5千組で、前年より3千組増えた。02年に28万9836組で過去最多になって以降は減少傾向にあったが、15年は6年ぶりに微増した。

▼人口動態統計 出生、死亡、婚姻、離婚、死産の5つについて戸籍法などに基づく市区町村への届け出を厚生労働省が毎月集計する。調査した月の約2カ月後に公表する「速報」と約5カ月後の「概数」のほか、1~12月の1年分が翌年9月に「確定数」としてまとめられる。年間推計は10月までの速報と7月までの概数を基に、11~12月分を予測して算出する。



レコードチャイナ 配信日時:2016年1月2日(土) 6時40分
http://www.recordchina.co.jp/a126245.html

日本の人口、15年は29万4000人自然減少
=130万人超が死亡―中国メディア

 2015年12月31日、中新網によると、同年の日本の人口は過去最高の約29万4000人自然減少した。

 厚生労働省がこのほど発表した人口統計によると、日本は死亡数が出生数を上回り、総人口が約29万4000人自然減少した。
 減り幅は過去最高だった。
 出生数は増加しており、30〜35歳女性による出生数が増え、全体を押し上げる形となった。
 同省は「女性の就業環境や保育施設の改善が後押しした」としている。
 しかし、出生可能年齢の女性人口の減少から、今後も少子化は続くとみている。

 死亡数は130万人を突破した。
 死因で最も多かったのはがんで、3割近くに達した。次いで心臓疾患、肺炎、脳疾患などだった。
 日本は05年に死亡数が出生数を上回り、人工が自然減少し始めた。
 15年の結婚数は約63万5000組。
 離婚は約22万5000組だった。




●人口動態からみる日本の将来 
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-118.html


上図でみるように、
 終戦の1945年から35年ほどの間は、毎年100万人を超える人口が増えていた
ことになる。
 マイナスに転じたのは「2005年」である。
 昨年は「30万人減」である。
 もし、仮に2050年までの35年間で、年間30万人ずつ減っていっても、1千万人ほどしか減少しない。
 日本の現在人口を1億2700万人とすると、
 2050年に1億人を切るには年間77万人づつ減っていかねばならない。
 つまり、今の倍以上の数の死亡数になるわけである。
 2020年あたりからベビーブーム時代の人口が70歳を迎えることになり、
 そのあたりから人口減が加速していく。
 年間100万人世代」の最後が70歳を迎えるのが、2050年あたりになる。
 2060年にはこの世代はほとんど姿を消すことになる。



● 1950年ベビーブーム時代の人口動態


● 2050年の人口動態予想
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-118.html








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京都市の大胆な実験:車道を半減させ、あえて自動車の利便性を下げる工事が着工

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ニューズウイーク 2015年12月29日(火)07時45分 待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授) 
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/12/post-4312_1.php

京都市の大胆な実験

「東京のような発展」へのオルタナティブ 市内中心部を東西に貫く四条通で、車道を半減させ、あえて自動車の利便性を下げる工事が始まったが、これは東京や大阪との差異化を徹底して「京都ブランド」を前面に押し出す政策へと転換する動きの一端である。

●(写真は清水寺近くの産寧坂)  

京都市に四条通という道がある。
 平安京の条坊制の名残を今に伝える名前だが、市内中心部を東西に貫くこともあって、近代以降は京都随一の繁華街として賑わってきた。
 とりわけ八坂神社のある祇園(東大路通との交差点)から烏丸通と交差する四条烏丸までは、大阪方面と京都市内を結ぶ私鉄である京阪電鉄や阪急電鉄がすべての列車を停める大きな駅を構え、デパートや高級ブランド店、大規模書店、和装など京都ならではの老舗、さらにメガバンクの京都支店なども並ぶ。

 今年の春先から、この四条通で大規模な工事が始まった。
 それまで車道が東方向と西方向それぞれ二車線ずつであったのを、各一車線ずつに半減させ、その分を歩道にするための工事である。
 工事区間は鴨川にかかる四条大橋から四条烏丸までだから、繁華街として賑わう区間とほぼ重なることになる。

 この工事を進めているのは京都市役所である。
 市役所の説明では、現在の歩道幅は狭すぎ、国内外からの観光客が増加し、さらに今後も国際観光都市として発展することを目指すには不適切だという。
 また、京都市は観光スポットを中心に渋滞が激しいため、自動車の流入を抑止することを継続して目指している。
 今回あえて自動車の利便性を下げるのも、その一環という面も大きいようだ。

 それにしても、経済活動の心臓部で車道を減らし、歩道を拡幅するというのは、何とも大胆な実験である。
 京都市はもともと、実験的な政策を恐れない町であることは確かだ。
 明治維新後の東京奠都(てんと)に伴い衰退した市の復興のために、琵琶湖疎水とインクラインを建設し、水源とともに物流ルートや電力源を確保した。
 その電力を使って日本初の電車(市電)を走らせたことは、よく知られている。
 大学が集積し、学生や研究者が多いこともあって、新しいことを面白がり、「まずやってみる」という先取の気風が今日に至るまであることも事実だろう。

 その一方で、第二次世界大戦後の京都市が、東京都や大阪市に追従する動きを見せてきたことも否定できない。
 一九七〇年代には市電を順次廃止し、八〇年代に入ると地下鉄を開業した。
 寺院への拝観課税をめぐって行政と仏教会が激しく対立したのも、この時期である。
 八〇年代末のバブル期には、市内中心部における建物の高さ規制を大幅に緩和し、高層ビルの建築を容認した。
 この間、同志社や立命館といった主要大学は市外に第二キャンパスを置くようになり、所有者の代替わりや地価高騰などによって市内の町家(いわゆる「鰻の寝床」といわれる狭い間口の伝統家屋)は次々と小さなビルなどに建て替えられていった。
 京都は「よくある地方大都市」になろうとしており、市の政策もそれを追認していたのである。

 したがって、四条通の工事は明らかな政策転換を示す動きだといえる。
 一般にはほとんど知られていないと思われるが、近年の京都市は目指す都市像を大きく変えている。
 具体例としては、商店が掲出する屋外広告物に対して強い規制をかけたことや、大規模な交通規制を伴う祇園祭の「後祭」を復活させたこと、現在はいったん下火になっているようだが、市電の復活についても本格的な検討と社会実験を行ったことなどが挙げられる。

 嵐山や銀閣寺といった特定の観光スポットだけではなく、通常「洛中」として意識されているエリア、すなわちJR東海道線・新幹線より北で、おおむね東大路通・北大路通・西大路通に囲まれる地域については、東京や大阪との差異化を徹底して「京都ブランド」を前面に押し出し、その価値を最大化する政策をとっているように見える。

 なぜ、このような転換が図られたのだろうか。
 一つには、日本社会全体の理念の変化があるだろう。
 市電の廃止を決めた高度経済成長期やビル高層化を容認したバブル期は、東京を模倣することこそが大都市の目標だと考えられていた。
 道路や地下鉄の整備、土地の高度利用などは、その行政的手段だったのである。
 一九九〇年代以降の経済的停滞は、環境保護や伝統的な生活様式の価値を見直すことにもつながっており、経済成長を通じた「東京のような発展」への政策的オルタナティヴが準備されたのであろう。

 もう一つには、政策転換が経済にもプラスになる、という認識が生まれたこと
も大きいように思われる。
 市電や町家の価値を訴える人々は、高度経済成長期やバブル期にもそれなりに存在していた。
 彼らの主張が多数派に受け入れられなかったのは、結局のところ、それでは京都市は衰退してしまうではないか、という懸念に十分な反論ができなかったためであった。

 しかし、「東京のような発展」の挫折と停滞に加え、東京圏在住の富裕層などが京都に特別な価値を認めるようになったことは、事態を大きく変えた。
 東京の縮小相似形に過ぎない町は、東京の人々には魅力はない。
 彼らは「東京とは異なった大都市」を京都に見出すからこそ、観光に訪れ、さらにはセカンドハウスを購入するといった行動に出るのである。
 海外からの観光客にも同じことがいえる。
 短い日本滞在期間中に京都を訪問地として選んでもらうには、東京との差異化は明らかにプラスの効果を持つ。

 こうして、政策理念としてのオルタナティヴが形成され、それが経済的利害とも整合したときに、新しい政策を自らの強みにしようとする政治家が登場した。
 その中心にいるのが、現在の門川大作・京都市長である。
 ほとんどの公式行事に着物姿で登場するこの市長の下で、ここに述べてきた政策転換の多くは進められた。
 その大胆さは、市の教育畑を歩んできた堅実そうなキャリアからは想像しがたい。
 それに平仄(ひようそく)を合わせるように、京都市議会は「京都市清酒の普及の促進に関する条例」(通称・日本酒乾杯条例)を議員提案で成立させた。
 宴席での乾杯を日本酒でしましょう、という理念のみの条例
だが、京都の独自価値を強めようとする志向においては共通する。

 とはいえ、良いことずくめの政策は存在しない、というのは政治学のイロハかも知れない。
 ある政策が選択されるということは、その政策を望ましいと考えた人々の意見が通り、望ましくないと考えた人々や他の政策が望ましいと考えた人々の意見が通らなかったことを意味するからである。
 自分の意見が容れられなかった人々にとって、採用された政策は望ましくないものである可能性は高い。
 ここに述べてきた京都市の政策転換の場合にも、それは例外ではない。
 時代の潮流や経済的メリットから考えて妥当に思われる政策も、負の影響を受けている人々は確実に存在する。

 その代表が、京都市域以外から京都市に通勤や通学をしている人々であろう。
 京都は歴史都市、観光都市であると同時に、それなりの経済圏や生活圏を持つ大都市である。
 「東京のような発展」を遂げた京都に毎日通っている、という人は多い。
 かく言う筆者もその一人である。
 このような立場からは、四条通の車線減は渋滞の原因であり、通勤・通学の足となるバスの遅れを意味する。
 祇園祭の山鉾巡行日が増えれば、同じように交通に大きな影響が出る。
 今回の政策転換が、京都市域外に住みながらも京都市の社会経済を支える人々の犠牲の上に行われたことは否定できない。

 京都市は全国の政令指定都市で唯一、市人口の所在都道府県内人口に占める割合が五〇%を超えている。
 つまり、京都府の人口の過半数は京都市民なのである。
 このことは恐らく、京都市が政策を展開する際に、京都市域外の人々の存在を意識しにくくしているであろう。
 また、京都市域外から通勤・通学する人々は、東京や海外からの観光客とは違い、宿泊もしなければ目立った消費もしない。
 彼らに少々不便があっても生み出す経済効果に大きな違いはないことも、市域外の人々を軽視することにつながりやすい。

 実のところ、この問題は先日まで注目を集めていた「大阪都構想」が本来扱おうとしていた課題の裏返しである。
 大阪の場合、大阪市の人口は府の人口の三〇%程度で、大阪市に市域外から通勤や通学する人が多数を占めていた。
 経済圏や生活圏は同じなのに、政治行政区画が異なるために疎遠になり、大阪市域外の人々が大阪市を見捨ててしまいかねない状況を打開したいというのが、都構想の基底にあった考えの一つであった。
 京都の場合には逆に、京都市が市域外の人々のことを十分に斟酌していないわけだが、根底にあるのは大都市における「圏域問題」、すなわち経済圏や生活圏と政治行政圏が重なっていないという制度的問題であることは共通する。

 政治行政区画が異なるために、選挙にも関与することができない人々ばかりがマイナスの影響を甘受せねばならないというのは、政策選択としてはあまり褒められたものではない。
 かといって、京都市に大阪府や滋賀県から通勤・通学する人も多いように、経済圏や生活圏と政治行政圏を完全に重ね合わせることは不可能だ。
 特徴や個性を打ち出さない限り、東京以外の日本の大都市には衰退しか待っていないことも間違いない。
 この状況で、どのような政策がありうるのか。
 京都市の大胆な実験から見えてくるのは、日本の大都市制度の根深い問題なのである。

[筆者]
待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授)
1971年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授、京都大学大学院法学研究科助教授を経て、現職。専門は比較政治・アメリカ政治。著書に『財政再建と民主主義』(有斐閣)、『首相政治の制度分析』(千倉書房、サントリー学芸賞)など。

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。









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日本には中国の歴史的古書が大量にある:

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サーチナニュース 2015-12-31 15:35
http://news.searchina.net/id/1598635?page=1

日本には中国の歴史的古書が大量にある、
中国人の研究に「格段の協力」もしてくれた=中国メディア

 中国メディアの都市快報は23日付で、
 「日本に行って中国の古籍を求める」
と題する論説を発表した。
 同論説は、日本では中国でも失われてしまった大量の古書が保存されてきたと紹介。
 戦前の1928年には、中国人研究者に皇室の図書寮文庫での閲覧を認めるなど、各段の便宜を図ったことにも触れた。

 記事はまず、日本は遣唐使の留学生が、大量の書籍を日本に持ち帰ったと紹介。
 貴人や寺院が適切に保存したため、中国ではすでに失われた書物が日本では大量に残ったと紹介した。

 日本でも多くの場合図書は私蔵されてきたので、多くの人の目に触れることはなかったと指摘。
 しかし明治維新で「西洋文明一辺倒」の状況になると、中国などの古書を売って西洋の書物を入手しようとする例が増えたと紹介。

 そのため、中国の文化人には日本に残っていた書物を購入しようという動きが発生した。
 代表的な人物としては、金石の専門家で外交官として1870年に来日した楊守敬がいた。
 楊守敬は六朝時代、さらに唐から清朝までに世に出た古書3万巻を中国に持ち帰った。
 中国では失われた古書も多く、例えば唐代初期に日本に渡った尚書(書経)の拓本もあるという。

 しかし、日本で明治初期の「西洋文明一辺倒」の熱がさめると、日本人は再び中国の歴史的書物を集め始めた。
 1907年には、清朝末期の四大蔵書化として知られた陸心源が収集した15万巻がすべて、日本人に売られた(解説参照)。
 すると中国人学者で、日本を訪れて古書を求める動きが改めて盛んになったという。
 張元済は1928年に日本を訪問。
 日本側は特別な便宜を図り、張元済が皇室の図書寮文庫に立ち入ることも認めた。

 さらに、陸心源の蔵書を補完していた静嘉堂文庫も張元済を受け入れた。
 張元済は3カ月にわたり、昼間は図書を選び、夜は筆記作業を行った。
 静嘉堂文庫側はさらに、書面を撮影した大量の写真も提供した。

 張元済は中華民国時代に設立された出版社の商務印書館を50年間にわたり経営した。
 商務印書館は当初、実業所を出版したが、その後は古書の復刻版を多く出版するなどで、文化面で大きく貢献することになった。
 張元済の日本における活動は、中国で古書を改めて刊行する上で、大きな意味をもったという。
 張元済はその後も何度か日本を訪れ、自国の歴史的古書についての研究を重ねた。

 記事は最後に
 「全体的に言って、清末から民国の約50年間で、日本で収蔵されていた中国の歴史的古書、特に東京一帯の古書は、中国人が訪日して確認することになった。
 この訪日活動は両国の文化交流を促進しただけでなく、わが国の歴史的古書の収蔵をさらに豊富にした」
と評価した。

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◆解説◆
 陸心源の蔵書売却は中国で「スキャンダル」とみなされた。
 陸心源は1894年に没しており、蔵書を売却したのは息子の陸樹藩だった。

 中国メディアの人民網は2011年に、同蔵書の「日本流入の真相」を紹介する記事を発表した。
 陸樹藩も父親の薫陶を受け、書物や目録作りの体系などを学んだ。
 しかし1900年に発生した義和団の乱と、それに伴う八カ国連合軍の天津・北京侵攻で大量に発生した難民を救うために、陸樹藩は慈善事業を開始した。
 書物の売却は、その資金づくりのためだったという。

 陸樹藩はその後、仏門に入り、孤児院を運営し、出来るだけの学問を指せて人材として育成した。
 中国でよく使われるインターネット百科事典の「互動百科」は、日本に売却された陸心源の蔵書について、東京で保管されていた古書の多くが関東大震災の火災で燃えてしまったが、陸心源の蔵書を収蔵していた静嘉堂文庫は燃えなかったとして、当時の日本人が「天の計らい」と喜んだことを紹介。

 さらに、蔵書は中国で発生した北伐、
 抗日戦争、国共内戦の被害も受けず、日本に渡って現在も「世界文明のひとつ」として保存されていると評価。
 日本軍には中国で古書を強奪する行為があったが、同蔵書は日本人が代価を支払って購入したのであり、両者を混同してはならないと紹介した。









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中国の消費傾向:GDP成長を上回る賃金上昇のペース

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サーチナニュース 2015-12-31 14:30
http://biz.searchina.net/id/1598626?page=1

消費拡大に寄与する価格要因=関志雄

  中国における消費の伸びは長い間GDPの伸びを下回っていたが、ここに来て、両者が逆転するようになった。
 このことは、主に消費性向(所得に占める消費の割合)が低下傾向から上昇傾向に転じていることを反映している。
といった価格の変動が、消費性向を押し上げていると見
☆. GDP成長を上回る賃金上昇のペース、
☆. 食料品の非食料品に対する相対価格の上昇、
☆. 人民元高、
☆. 一次産品価格の低下、
☆. 株価の上昇、
☆. 実質金利の低下
といった価格の変動が、消費性向を押し上げていると見られる。

● GDP成長を上回る賃金上昇のペース

  近年、労働力が過剰から不足に転じつつあることを背景に、賃金上昇率はGDP成長率(いずれも名目ベース)を上回るようになり、労働分配率(GDPに占める労働収入の割合)も2011年を底に上昇傾向に転じている。
 一般的に、消費性向は所得水準と反比例し、高所得層ほど低く、低所得層ほど高くなる。
☆.所得格差が拡大すれば、所得がますます消費性向の低い高所得層に集中することになり、
 全体の消費性向が抑えられる。
☆.逆に所得格差が縮小すれば、全体の消費性向は高まることになる。
 労働者は、資本収入に恵まれている階層と比べて所得が低く、消費性向が高い。
☆.労働分配率の上昇は、所得格差の縮小を意味し、全体の消費性向の上昇を通じて、消費拡大につながっている。

● 食料品の非食料品に対する相対価格の上昇

  2002年以来、食料品価格の上昇率が一貫して非食料品価格のそれを上回っており、今年の1‐11月には前者は前年比2.3%に達しているのに対して、後者は同1.0%にとどまっている(図1)。
 食料品の非食料品に対する相対価格の上昇は、都市住民から農民への所得の移転を意味し、農村住民と都市住民間の所得格差の縮小を通じて、全体の消費性向を押し上げている。
 実際、2015年1-9月の農村住民一人当たり可処分所得の伸びは前年比8.1%と、都市住民のそれ(同6.8%)を大きく上回っている。
 これを反映して、農村住民の一人当たり消費支出の伸び(前年比9.3%)も、都市住民のそれ(同5.4%)を大幅に上回っており、農村部における小売売上の伸び率(前年比11.7%)も都市部(同10.3%)を上回っている。

[註]:図は添付されていない。
図1 非食料品を上回る食料品価格の伸び(図入りサイト参照)

● 人民元高

  中国の主要貿易相手国の通貨に対する加重平均である人民元の実効為替レートは、2005年に管理変動制に移行してから上昇傾向を辿っている。
 特に、ユーロと円といった主要通貨がドルに対して急落したことを受けて、この一年ほど上昇のペースが加速している。
 元高に伴う輸出競争力の低下に歯止めをかけようと、政府は2015年8月11から13日にかけて人民元の対ドルレート(中間レート)を計4.7%切り下げたが、その後も、人民元の実効為替レートは、前年を大幅に上回る水準で推移している(図2)。
 人民元高により、中国の輸出品が輸入品と比べて相対的に高くなり、これに伴う交易条件の改善は、中国の国民の実質所得を押し上げること通じて、消費の拡大につながっている。

[註]:図は添付されていない。
図2 人民元の実効為替レートの推移(図入りサイト参照)

● 一次産品価格の低下

  中国は一次産品の供給を大きく海外からの輸入に頼っている。
 世界経済が低迷する中で、石油などの一次産品価格は急落しており、このことは、人民元高と同様に中国の交易条件の改善を通じて、中国国民の実質所得、ひいては消費を押し上げている。

● 株価の上昇

  株価の変動は、「資産効果」を通じて消費に影響を及ぼす。
 一時急上昇した上海総合指数は2015年6月12日の5166ポイントをピークに急落したが、8月26日の2927ポイントを底に持ち直しつつあり、12月中旬現在の上海総合指数は一年前と比べて依然として2割ほど高くなっている(図3)。

[註]:図は添付されていない。
図3 上海総合指数(前年比)の推移(図入りサイト参照)

● 実質金利の低下

  経済成長の鈍化に歯止めをかけるために、中国は金融緩和を行ってきた。
 その一環として一年満期の基準預金金利を2014年11月から6回にわたって利下げし、3.0%から1.5%に引き下げられた。
 同じ時期にインフレ率も下がっているが、低下幅が預金金利より小さいため、実質金利(名目金利‐インフレ率)は直近のピーク時(2015年1月)の1.95%から2015年11月には0%まで低下した。
 実質金利の低下は、未来の消費のために貯蓄するよりも、現在の消費を増やした方が有利であることを意味する。

  これらの価格要因に加え、ネット通販の普及なども消費拡大に寄与している。
 経済成長が減速する中で、消費が比較的に堅調に推移していることは、景気の下支えとなっている。

[註]:図は添付されていない。

(執筆者:関志雄 経済産業研究所 コンサルティングフェロー、野村資本市場研究所 シニアフェロー 編集担当:水野陽子)
(出典:独立行政法人経済産業研究所「中国経済新論」)








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