●各メディアで話題沸騰! 日本の美術・思想・文学を人々の精神の歴史として流麗な文体で描き切った傑作
各メディアで話題沸騰!三内丸山遺跡から四谷怪談まで、一気呵成の2000枚超。ヘーゲルの清新な翻訳から20年余、著者畢生の大作、ついになる
『
現代ビジネス 2015年12月02日(水) 長谷川宏
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/46243
構想執筆20年、今年最大の収穫本『日本精神史』はこうして生まれた
西洋哲学徒にとって「日本」とは何だったのか?
上下巻合わせて1000ページ超。
この秋刊行された大著『日本精神史』が売れている。
縄文の三内丸山遺跡から江戸の四谷怪談まで、日本の「精神」の流れをたった一人で描いた他に類を見ない本だ。
しかも平易な語り口で、読み始めたら止まらない。
著者はヘーゲルの明快な翻訳で高く評価される在野の哲学者・長谷川宏さん。
なぜ西洋哲学を専門にしてきた長谷川さんが、「日本」と向き合うことになったのか?
執筆のきっかけとこの本に込めた思いを聞いた。
◆西洋近代哲学の「外」へ
執筆に十数年、構想をいだきはじめた頃から数えればだいたい20年くらいの年月をかけて、このほど『日本精神史』という本を上梓しました。
上下2巻合わせて1000ページを少し超える大著です。
どうやってそんな本を書く気になったのか、そのいきさつから話します。
大学では哲学科に属して、学部でサルトルを、大学院ではヘーゲルを研究しました。
サルトルとヘーゲルを結ぶ西洋近代哲学が自分の研究対象だろうなと、漠然と思っていました。
●長谷川宏氏
28歳になって、ドクター(博士課程)ももう終わりのころ、全共闘運動が始まりました。
私は60年安保も経験しているので、なんとなく血も騒ぐし、大学の先生とケンカするのも面白そうだし、他の学生たちよりは年上でしたが、運動に参加しました。
そこでいろいろ考えているうちに、大学で研究を続けているという自分のあり方を、運動そのものが問うている、と感じたのです。
運動が終わったからまた大学にもどって教員になるというのは、身の処し方としてどうしても納得できないものがある。
そこで、いったんアカデミズムから出ようと決意し、埼玉県の所沢に引っ越して塾をはじめました。
そうなると、それまで自分が考えてきた西洋近代の哲学という枠組みが、そんなに意味があるように思えなくなってきます。
大学院時代は、いちおう哲学科なので、英独仏の原書を読み、ノートをとり文章を書くのが生活の中心でしたが、それ以外の時間には、日本の古典を読んだり、東西の文学や詩を読んだりするのが、とても好きでした。
それもあって、大学をやめた1969年から70年頃には、哲学よりももう少し広く文化的な仕事をしてみたい、と思うようになりました。
実際に、1970年代の半ばには、『ことばへの道』(勁草書房→講談社学術文庫)という、哲学専門というよりは、文学や詩を合わせて扱う本を書きました。
80年代に入っては、黒田喜夫という詩人についての本も出しています。
山形県の極貧の出身で、「毒虫飼育」とか「空想のゲリラ」とか面白い詩を書いた人です。
そういう分野へ自分の触手を延ばしていくのが気持ちよかったし、環境の変化を上手に利用できているな、という意識もありました。
そういう西洋近代の哲学という枠組みから出て行こうという気持ちが、1990年代になって、日本の古典を読み、日本の美術作品を見ながら『日本精神史』を書いていくことにつながっていきました。
◆奈良との出会い
では、『日本精神史』というときの、「日本」に対する関心は、どのように育ったのか、それについても話しておきます。
ひとつには、塾をはじめたことが機縁になりました。
塾はもう45年も続いていて、今は半分隠退の身ですが、それでも小学生や中学生を相手に多少は教えています。
若いころは、とくに日本史を教えるのが面白くて、本腰を入れて予習をしました。
よく読んだのが、「日本の歴史」と銘打ったシリーズです。
いちばん有名なのは中央公論社の『日本の歴史』ですが、それ以外にも講談社のものがあったり、小学館のものがあったり、いろいろあります。
そのシリーズを手当たりしだいに読んだ。
すると、たとえば同じ平安時代を書いた巻でも、筆者によって、
★.それがどういう時代かという大きなイメージができている筆者と
★.いくら細かいことを書いても、時代のイメージができていない筆者がいる。
前者を読むと、おお、これは一流の歴史家だな、と思える。
自分でも子どもに教えるときに、それがどういう時代だったのか、というイメージをなんとか伝えたいと思った。
「日本」に関心が向かうようになったきっかけが、もうひとつあります。
1974年だったと思いますが、はじめて奈良に行ったことです。
たいへんな衝撃を受けました。
じぶんはなぜ30歳をすぎるまで、奈良に来なかったんだろうと、いぶかしくなったほどです。
これからは毎年奈良に通おうと決心しました。
塾では毎年3月末に3日間、演劇祭をやります(これだけでも、普通の進学塾ではないことがおわかりでしょう)。
それが終わると、その熱気でへとへとになるわけで、その後約1週間、奈良に逃れてぼおっと仏様をみていると、気持ちが和らいでくる。もう40年も続けています。
とにかく、ゆっくり仏様と対峙するのは、至福の時間です。
そうやって自分が日本の古い文化とか、美術品とつきあうことが本当に好きなんだなと、つくづく思いました。
◆ヘーゲルの歴史観にうながされて
角度をかえて、少し哲学風に言ってみましょう。
私はヘーゲルとは、訳書を何冊も出したりして長いつきあいですが、ヘーゲルの哲学は西洋近代哲学のなかでも、格別に歴史に対する思い入れの強いものです。
たとえば、デカルトにせよカントにせよ、
西洋の代表的な哲学者は、人間の理性とはそもそもどういうものか、人間にとって真とはなにか、善とはなにかと追求するときに、
歴史の中に入っていくということは、あまりしません。
そういうなかで、ヘーゲルが作り上げていった哲学をみると、世界史をひとつの視野におさめようとする、壮大な歴史観があります(もちろん、彼の世界史にアフリカも南アメリカも出てこない、という意味では、ヨーロッパ中心であって、現代の世界史とはちがうものですが)。
ヘーゲルのそういう哲学を読んだり訳したりしていると、自分が興味を持つ日本の歴史を、こういう壮大な構想のもとにまとめられないだろうか、と思うわけです。
いやいやヘーゲルに乗せられちゃいけないぞ、とも思い直すのですが。
そういう意味では、『日本精神史』がなるにあたっては、ヘーゲルにうながされたという面も大きかったと言えます。
◆時代の流れをどう追うか
では、日本の歴史書ないし思想書に、自分の構想の先例となるような書物はあったのか。
古いところでは、津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(洛陽社→岩波文庫)があります。
大正時代に書かれて、戦後、あらためて出ました。
あるいは、和辻哲郎の『日本精神史研究』(岩波書店)もある。
ただ、これらはもちろん通読はしましたが、自分のやり方とは違うな、という感想でした。
これらの本と、思考のねじり合いをしながら書いていこうとは思わなかった。
それなりに影響を受けたものとしては、ひとつは亀井勝一郎が1960年代に出した『日本人の精神史研究』(文藝春秋)があります。
4部に分かれて、
第1部『古代智識階級の形成』、
第2部『王朝の求道と色好み』、
第3部『中世の生死と宗教観』、
第4部『室町芸術と民衆の心』
です。
『日本精神史』のなかでは亀井勝一郎は一箇所も引用していませんが、時代の流れを追うときの構え方が、自分の構え方と似ていると感じました。
もう一人挙げると、最近なくなった加藤周一の『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫)と、それから『日本その心とかたち』(徳間書店)。
前者は文学史が中心ですが、親鸞や法然など、思想もかなり自由に取り込んでいます。
後者は美術が中心テーマです。
いずれについても、歴史の流れのとらえ方に刺戟を受けました。
それでは、津田左右吉や和辻哲郎と、彼らはどこがちがうのか。
もちろん、4人とも歴史に残る数々の名作を相手とするのですが、そこから入って、亀井勝一郎や加藤周一は、それらが生まれたのはどういう時代だったのか、とか、そこに生きている人びとはどう生きていたのか、といったことを身を低くして追っているような気がします。
時代の動きを文学とか美術とか思想で追おうとすると、そういう文化的な動きは、時代の政治的・社会的な動きとはずれるけれども、時代の精神のあり方と深くかかわるところがある。
彼らがそのかかわりに目を据え、それを表現しようとするところが刺戟的でした。
◆あらためて「日本」とはなにか
そんなふうにして、自分の中で『日本精神史』という主題を掲げて、15年、20年と研究を続けてきました。
もちろん、「精神」という言葉は、ヘーゲルの『精神現象学』を多分に意識しています。
ヘーゲルの使う「精神」という言葉は、私にとって、とても瑞々しいものでしたので。
ただ、「日本精神」という言葉が、ある種のナショナリズムに行きつくのは避けたい、という思いは強くありました。
60年安保を戦ったり全共闘運動を戦った人間が転向して先祖返りした、というのでは洒落にもなりませんから。
では自分にとって、「日本」とはなにか。あらためて問わざるをえません。
身も蓋もない言い方だが、それは、自分にとって「身近な場所だ」ということです。
たとえば、ヘーゲル哲学を研究するのなら、なにもドイツに行く必要はない。
図書館にいけばだいたいの本はあるし、ベルリンの図書館からマイクロフィルムをとりよせることもできる。
ましてや、いまはインターネットの時代です。
どこにいても研究はできます。
だけれども、美術品、たとえば仏像は、奈良に行って対峙しなくては見られない。
また、歩き慣れた奈良の街の風景は、私は出雲の出身ですが、子どもの頃、出雲大社に行ったり、近くの神社に行ったときに経験していた、その場への身の置き方につながるものがある。
そういうものは、西洋近代哲学を志したときには、たしかに自分の中で一度ぬけ出そうとしたものではある。
そこから、「身近」なものとしての日本に戻ってきた気分は、私にとって、とてもゆったりしたものでした。
そこにわたしは精神のゆたかさを感じたのですが、その精神はナショナリズムを超えた普遍的な精神のゆたかさでした。
ただし、身近に帰る、というのは、そこにもたれかかることではありません。
どんな作品と対峙するにも、問題を自覚し、緊張もしなくてはならない。
それでも、美術作品などに身近で親しく接することができるというのは、絶対的な強みだといえます。
◆精神」という語に込められた意味
「日本」に続いて、「精神」にも触れておきます。
「精神」は、日本語として曖昧でつかみにくい言葉ですが、ヨーロッパの言葉としても、けっしてわかりやすい概念ではありません。
英語では、spiritかmindですが(soulは魂と訳されることが多い)、このふたつはどう違うか。
mindはどちらかといえば、人間の心のなかにある、個々人のいろんな動きを指す。
spiritはもう少し広く漂うような、社会的な要素が強い。
霊と訳すのがふさわしい場合も少なくありません。
ドイツ語では、Geistです。
ヘーゲルの『精神現象学』はPhänomenologie des Geistesです。
ヘーゲルはGeistを得意になって使うけれども、日常普通の言葉ではなく、ロマン主義的な、どこか現実と切れたような形で使われる言葉です。
ヘーゲルは、現実に引き戻すような使い方をしますが。
フランス語では、espritです。
これも普通によく使われる言葉ではないし、哲学的に意味が確定しているわけでもない。
私自身は、ヘーゲルが『精神現象学』で使う「精神」をとても魅力的に感じるので、それを下敷きにしています。
ヘーゲルが『精神現象学』で使っている「精神」には、いろんなレベルがあります。
まず、個人のレベル。
ヘーゲルは理性的であることを重視しますから、理性的にものごとを考え、認識を深めていく個人のあり方を「精神」という。
それが、もう少し共同のものになるレベルがある。
たとえば、ある時代のものの見方やものの考え方のレベルで、それが時代精神です。
その時代にみんなが文化的に共有しているものとしての精神。
それが、さらにもう少し広がると、たとえばゲルマン民族とかラテン民族に特有のもの、ヘーゲル流にいえば民族精神になる。
最終的には、精神によって世界全体を抑え込もうという野心がヘーゲルにはありますから、世界精神という言い方もする。
それが、ヘーゲルの使っている「精神」です。
◆時代精神の変化
私が『日本精神史』を考えるときに使いやすかったのは、時代精神です。
たとえば、平安時代の末期から武士が台頭して、貴族支配が崩れる。
武士は戦闘を事とする集団なので、人が殺したり殺されたりする。
殺しに関わる人もいるし、その周辺にいる人もいるし、遠くから見ている人もいる。
飢餓が起こり、世情が不安定になる。
もうこの世にはそれほどの希望がない。
あの世にいけば往生できる、この世では望めなかったしあわせをつかめるんじゃないか。
そういう感覚が、一般的に人々のあいだで共有されるようになる。
それが時代精神です。
そこにむかって、法然とか親鸞は、あなたたちは必ず極楽に行ける、必要なことは南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけでいいんだ、といいました。
社会に広がっている現実に対して、先駆的な思想家が現れて、お祈りしなさい、それだけであなたたちはしあわせになれるというわけです。
時代と思想のこういう交錯は、今の世の中では無理です。
もっとおいしいものを食べたいとか、外国旅行を楽しみたいというのが今の時代精神ですから。
時代の精神が、この世にはどうやら希望がない、あの世ならどうやら希望がありそうだ、というあり方だから、法然や親鸞が出てくる。
このような精神は、それ以前の時代にはなかったし、それ以後もない。
鎌倉の終わりから室町になると、こんどは禅的なものがおもてに出てきます。
心をむなしくすることでかえって本当のものが見えてくる、というふうに仏教の重点が変わる。
時代の精神が変わったのです。
精神は、個々の人間の心の中にも内在しうるし、個人を超えて空間的にも広がっていく。
あるいは時間を超えて流動していく。
そういうものとして、時代精神の動きを描こうとしました。
そういうふうに時間、空間を自由に行き交うものとして精神をとらえると、たとえば法然を書いているとき、自分と法然がどこかでつながる感覚が起こるのです。
法然の行動や思想に流れる精神が、時間を超えて自分とつながる感触というのが、たしかにある。
そういう感触を得たことによって、思想書や文学作品や美術作品のなかに時代精神のあり方を探るという方法に、次第に手応えが感じられるようになりました。
◆「生きる力」と「日本的な美」
本の最初に縄文の三内丸山遺跡が来ていますが、そこから研究を始めたわけではありません。
’まず、自分が強く興味をもったところからはじめました。
先ほども触れた平安末から鎌倉の始めにかけての時代がそうです。
人名で言えば、法然、親鸞、道元。これは仏教者ですね。
それから重源。
この人は仏教者としてはそれほどでもないかもしれないが、東大寺が焼け落ちたときに、大仏殿を再建し、南大門を作り直したお坊さんです。
もうひとり、仏師として活躍した運慶。
さらには鎌倉で武家政権を作り上げた頼朝。
こういう大人物たちが、次々に出てくる。
まずは、ここをきちんと押さえたかった。
それぞれが時代の精神と深くかかわりながら新しいなにかをつくりだそうとしたのですから。
美術に関しては、白鳳から天平に――もちろん、奈良・京都を毎年訪ねていることが大きいのですが――、日本的な美の一つの典型があるように感じました。
そこをきちっと押さえられたら、それ以外の美術の展開についても、ぶれないですむのではないか。
そんな風に考えていました。
もうひとつ、言及しておきたいのは、2011年の3.11です。
東日本大震災は大変な衝撃でした。
そのときに、今言った法然、親鸞、重源、運慶といった大人物たち、あるいは、白鳳・天平の千数百年たっても変わらずそこにある美しさ、それが改めて貴重なものに思えたのです。
それらには、精神としての輝きがある。
生きる力を与えてくれる輝きです。
精神が、時間・空間を超えて行き来できるのは、そこに生命力がこめられているからではないか。
気持ちが沈んだときに、少しでも前に行けるような生きる力と、日本的な美というものが、どこかで交錯しているのではないか。
そのように感じられました。
最後に、もう一度ヘーゲルに戻れば、
ヘーゲルの「精神」は、世界をすべて体系の中に包み込むようなものです。
体系が弁証法的な円環をなして、全部その中に入ってしまう。
私の言う「精神」は、とうていそういうものではない。
「精神」は、これから先も、どういうふうに動いていくかわからないものです。
そういう一種の精神の生々流転、紆余曲折、有為転変のありさまは、同時に、人間がどういう形で生活をし、お互いがつながり合い、社会を作るのか、ということでもある。
その流れが、自分たちの心をゆたかにするようであればいいな、と思います。
振り返って、過去の精神のなかにももちろん、苦しげな精神もあれば、悲哀にみちた精神もあります。
が、そういう精神のなかにも、生きていく上で力や希望になるものを探りたい。
それが『日本精神史』に取り組む上での私の一貫した態度だったように思います。
長谷川 宏(はせがわ ひろし)
1940年生まれ。東京大学大学院哲学科博士課程修了。
大学闘争に参加後アカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわら、在野の哲学者として活躍。
とくにヘーゲルの明快な翻訳で高く評価される。
主な著書に、『ヘーゲルの歴史意識』(紀伊國屋新書)、『同時代人サルトル』『ことばへの道』(以上、講談社学術文庫)、『新しいヘーゲル』『丸山眞男をどう読むか』(以上、講談社現代新書)、『初期マルクスを読む』(岩波書店)など。
またヘーゲルの翻訳として、『哲学史講義』(河出書房)、『美学講義』『精神現象学』(レッシング翻訳賞、日本翻訳大賞)『法哲学講義』(以上、作品社)などがある。
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